2005年5月22日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ8章48節〜59節より
牧師 吉田耕三
皆さんは友達がたくさんいるでしょうか、あまりいないでしょうか。友達と言われると、どういう人が友達なのだろうか、自分には本当の友達はいるのだろうか、果たして私達は友達と思っている人のことを知っているだろうか。その人が何を悲しみ、何を喜ぶか、どうすることを願っているかを何も知っていないことが結構あるのではないでしょうか。イエス様は私達に「あなたはわたしの友です。」と言って下さっています。
「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15章14〜15節)
イエス様は語るべきことを語り、あなたがそれに従ってくれるなら、あなたは本当に友だと言われた。友達のためには私達は喜んで犠牲を払うのではないでしょうか。ですから私達が主のしもべとして歩むそこには喜んで従っていきたいという気持ちが出てくるわけです。が残念ながら今見てきたユダヤ人の中にはその姿があまり見られません。
「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」(ヨハネ8章31節)
私達が適当にではなく、真剣に神の言葉に従っていくならば、私達は主の友であるし、それを通して自由を知り解放を味わっていく、真理の中に生きることが出来るようになっていくと聖書は教えているのです。どうしたらそうなれるのかを見ていきたいと思います。
真理に対して私達のとるべき態度は
ヨハネの福音書はマタイ、マルコ、ルカの福音書が完成された後で、更に必要なこととして語って下さっている。深いことを語っていると言えるかもしれません。私達の中にはこの中に現わされている、神様に従いたくない心があるという認識を知る必要があると思います。私達が真理に本気になって従っていく時に自分では考えられなかった解放された生き方が現われてきます。そして是非とも御国の恵みに満たされた生き方を味わって欲しいと語っているのではないかと思うのです。
「しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(ヨハネ8章45〜47節)
イエス様ははっきりと「わたしは真理を話している」と言いました。人が喜ぼうが喜ぶまいが真理を語っている。もしあなた方が本気になって求めるならば、確かにこれが真理であると理解出来るはずというのです。そして次に『あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。』とこんな言葉を言える人がいますか。私達は自分の中に過ちがたくさんある。しかしイエス様は大胆に「わたしに罪があると責める者がいますか。」と言えることが出来るこの人は一体どういう人であるだろうかと考えると思います。ただ者ではない。事実を調べれば確かにそういう生き方をしている。その人の言葉に真剣に耳を傾けなければならないと分かるはずです。でも彼らはイエス様の言葉を聞こうとはしなかった。イエス様の言っている言葉、姿勢をよく考えなさい。そしてあなた方はどうするのか。イエス様の言葉を適当に聞くことも出来るし、無視することも出来るし、真剣に聞いて従っていくことも出来るかもしれません。そして真剣に聞き従う者にまことの命が宿るとイエス様は語っているのです。
「ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」(48節)
これは分かりやすく言うと「あなたはよそ者で正統派ではない」ということです。彼らは「私達はアブラハムの直系であり、選びの民である。それに対してあなたは傍系で偽者である。」とイエス様を外に追いやろうとする。そしてそんなことを言うのは悪霊に憑かれているからだというのです。同じ出来事を見ても片方は「これは真理だ。」と受け取り、片方は「全くの嘘っぱち」と見ます。イエス様の言葉はそういう深みを持っていると思いますね。私達はどういう態度をとるのか。自分達はユダヤ人であるというプライドを持って、真剣にイエス様に聞こうとしなかった彼らは「イエスは悪魔にとり憑かれている」という間違った結論を下したのです。それに対してイエス様は
「イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」(49〜51節)
私は最初にこれを読んだ時に、今までは無視していることが多かったのですが、何故こういう風に応答したのかと思いました。これはイエス様が真理をはっきりと伝えようとしてるからかなとも思うのです。『わたしは父を敬っています。』とは別な言い方をすると「わたしは神の御心に従っています。」ということです。本当に御言葉に従っているかどうか調べたらよろしい。この方は正しい方であると認めざるをえない結論がつくのではないか。でもあなた方はそのわたしを卑しめている。何か間違いがあるから卑しめているなら分かるが、言うことも、していることも真理そのものであるにも関わらず、あなた方はわたしを卑しめている。同時に『わたしはわたしの栄誉を求めません。』「自分の名誉回復のために言っているのではない」ということです。あなた方がわたしを裁こうが気にしない。ただ真実を語っている。それは『それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。』わたしはそれをしないが父なる神はそのことをするという警告も下している。最後に『まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。』との重大な言葉を言ったのです。
皆さんが1970年前にイエス様に会ったとしたらどんな反応を示すでしょう。もろ手を上げて「イエス様」と受け入れる人、「本当かな」と疑い深く話を聞く人。私達はユダヤ人のことをとやかくは言えないでしょう。人間の罪の一番最初にリストされているのが、マルコ7章には”悪意”と書いてあります。私達は物事を悪くとる傾向があると思います。彼らはイエス様が『決して死を見ることがありません。』と言った時に「それはおかしい」と結論を下して否定してまった。
「ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」(52〜53節)
ユダヤ人達は頭からイエス様を神と認めていませんから、イエス様の言うことをことごとく否定していきます。「あなたは私達が尊敬するアブラハムよりもっと偉そうなことを言うではないか。」とその通りだから真剣に聞けば良いのに、彼らは「違っている」としか考えなかった。アブラハムも死に、御言葉に従った預言者達も死んだ。
ではなぜ「わたしのことばに従うなら死なない」と言うかを少し解説しますと、聖書では3つの死を表すことが出来ると思います。1つめは私達が普通に経験する肉体の死。第2は霊的な死、神様との交わりと関係が立ち切れている。だから神様が分からない、神の愛が分からない、神の恵みも分からないのです。第3は永遠に神の恵みから切り離される。要するに永遠の裁きの世界に入らなければならない。霊的な世界のことを話しているのですが、彼らには全然分からないことになってしまうのです。
分からないならば求める
「イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」(54〜59節)
非常に分かり難いところですが「わたしが自分で栄光や誇りを取り戻そうとはしていない。しかし父はわたしにそのことを現わすでしょう。」ということです。イエス様が十字架で死んだ時に『「この方はまことに神の子であった。」(マタイ27章54節)』とローマの百人隊長も告白しています。
最初に友達のことをどこまで知っているかと話しましたが、私達はこれまでイエス様について学んでいるかもしれません。でも友達を知るという意味でどこまで知っているでしょうか。イエス様の悲しみ、イエス様の喜びが分かりますか、そういう豊かな交わりを私達はまだ持っていないのではないでしょうか。神様はそこまで私達を導いておられる。イエス様が『わたしは父を知っている。』とは単に知識として知っているという意味ではない。本当に生きた命の交わりを持っている。でもあなた方がその交わりを持っていないでしょうというわけです。私達もこのことに心を照らされたいと思います。
「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(第1コリント8章2節)
山上の説教で『義に飢え渇いている者は幸いです。』と語られています。「分からない。教えて欲しい。」という者こそ幸い。何故ならその人は満ち足りるからです。教えて欲しいと謙遜に求めていくべきです。ニコデモはユダヤ教のリーダーでした。本来は教える立場でしたが夜中にイエス様の所に来て尋ねる謙遜さがあったのです。分からないから教えて欲しいという姿勢で神様に望むことは大切なことかと思います。その時に神様は教えて下さるのです。私達は「本当に分かっているのだろうか」と自問自答し「主よ、あなたを教えて下さい。」と求めていきましょう。私達はその中で、この神様が本当に恵み深い方であること知ると思います。
「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」(イザヤ30章18節)
神様がこんなに私を想って下さると分かるところまで求める。私達は愛されて受け入れられて、神様が何と恵み深い方、優しい方と知るべきです。そのことが分からなければ「主よ、分かりません。教えて下さい。」と求めましょう。そして私達はその深みに入っていきたいと思います。
彼らは次にイエス様の「あなた方が尊敬しているアブラハムもわたしのことを思って喜んでいた。」という言葉にひっかかり『あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのですか。』と反論する。イエス様はこの時30歳ちょっとです。まだ年端もいかない、長老にもなっていないような年齢で何を偉そうなことを言うのだという意味かと思うのです。それに対してイエス様は『アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』と答える。これは「エゴーエイミー(わたしはあってあるもの)」神ご自身を現わす言葉です。こうイエス様が語られた言葉に怒り、人々は石をとって投げつけようとしましたが、イエス様は身を隠して宮から出て行かれた。
私達はここから何を学ぶべきでしょうか。まず私達は本当に主を知っているかというチャレンジを受けたいと思います。主について学ぶことがあったとしても、それで主を知ったことにはなりません。本当にその人と心と心が触れ合うような関係までいって初めて知ったと言えるのです。「イエス様、私はまだ分かりません。あなたの愛の深さが分からないのです。あなたの優しさが分からないのです。恵もうとして待っておられると言われても嘘だと思ってしまうのです。」と正直に告白し求めましょう。聖書は『求めよ、さらば与えられん』と言っているのです。
エレミヤ書29章には『もしあなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしは見つけられる。』と書いてあります。私達は「まだ知っていない。」というところに立たない限り求めませんね。私はこんな風に学んでいるからもう分かっていると思った瞬間から成長することがなくなってしまいます。へりくだった姿勢こそ私達が持つべき姿勢であると是非覚えていきたいと思います。
そして2番目に『わたしのことばを守るならその人はけっして死を見ることはありません。』とありましたが、今度は「この方に従っていくことが正しいのだ。」と分かったらその御言葉に従うという訓練です。
「しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11章28節)
イエス様の素晴らしいメッセージを聞いて1人の女性が「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」と言われた時のイエス様の言葉です。私達は知っていることが幸いではなく、知っている知識を実際の行動に移すことが出来た時に本当の幸いがやってくるのです。御言葉を守るならばその人は決して死を見ることがないとは、肉体の死を恐れることも不安になることもない神様との生きた交わりの中で、永遠の裁きも恐れない生き方に変えられていくことが出来る。御言葉を守る時にこの恵みにあずかれる。
ここで大事なのは、ユダヤ人がなぜ反対したのか。それはアダムとエバ以来、私達の中には神の言葉に逆らう思い、従いたくない思いがあるのです。だから御言葉に従えないのです。クリスチャンにも同様に「従いたくない」という気持ちはあります。でもイエス様を信じた時に新しい命が宿ったのです。イエス様を信じた者には新しい種が入っている。そしてこの種から芽生えるのは「神様に従っていきたい。」という気持ち。実際に行えているかどうかは別として、全然行っていないように見えても、心の中では「こんなことをしたくない。本当は神様に従っていきたい」という気持ちがあるのです。生まれながらの私達は罪を犯すと「やった」と罪が嬉しいのです。でもクリスチャンは少しは喜びもありますが、心のどこかで「ちょっといやだな。あんまりこういう方法ではなくて、もっときちんとした生き方をしたいな。」と思うのです。大事なのはその中でどうするかということです。従いたくない気持ちと従いたい気持ちがあるのです。ですから「神様、従えるようにして下さい。」と祈る。「自分にその力はないけれども従わせて下さい。」と祈る時に神様が従わせて下さるのです。その時に神様の素晴らしい業が広がっていくのです。
中国への宣教師として遣わされたハドソン・テーラーは宣教師として訓練するために「神様は祈りに応えて下さる、神様は生きておられる。」ことをもっと確信出来なければ私は中国には行けないと思ったのです。彼が準備しながら勤めていたのですが、雇い主は非常に忘れっぽい方で「忘れっぽいので給料日になったら私に言って下さい。」とテーラーに言っていた。でもテーラーは「神様に応えて頂くために、私は言わない。」と決めていたのです。
ある時に給料日になっても10日過ぎ、20日過ぎ、1ヶ月経ってしまい手元に硬貨1つだけになった。彼がスラム街で伝道をしていた時に小さな男の子の家に行くと病気の母親が寝ていた。彼は1枚の硬貨を探りながら「もしこれが2枚あれば喜んで片方を彼にあげるのに。」もっと考えて「これが1対10であったなら、10を彼にあげて自分は小さいほうで我慢出来る。けれども1枚しかない。」彼は祈り始めたのですが、神様から「嘘つき。偽善者」と言われているような気がした。その後で彼は「たくさん持っていると思うかもしれないが、これが私にとっても最後の1枚なんです。でも神様があなたに与えなさいと言っていますから。」と与えた。彼の財布は軽くなりましたが、同時に心も軽くなり喜びが溢れ出てきた。そして翌朝異常に早い時間に郵便が届いた。封筒を開けると男の子にあげたお金の何倍もの金額が入っていた。雨に塗れて差出人が分からなかった。
神様は思いがけないことをして下さるのです。私達に必要なのは神様に従うことなのです。1人1人内容は違うでしょう。例えば謝まりなさいという訓練は結構あるのではないでしょうか。向うが謝ってきたらこっちも謝るけれど自分から謝るのは嫌だという気持ち。でも聖書は「あなたから」と言うのですね。恨み続けても何も良いことがないのです。でも私達は「相手が悪い。」という思いを捨てたくないのです。でも聖書は「あなたが出来る一歩をしなさい。赦しなさい。自分の罪を認めなさい。」と語ります
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章9節)
神様が皆さんに示す一歩を従い始めてみたいと思うのです。その時に私達は神が備えて下さる幸いを体験していくと思います。共にこの道に進んでいきたいと思います。