2005年5月29日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ9章1節〜12節より
牧師 吉田耕三
「因果応報」という考え方があります。あれだけ悪いことをしたから、こんな悪いことが起こるのだという考え方です。呪いや崇り、こういうところをくすぐられますと莫大な布施をしてしまったりするようです。そしてこの間違った考え方がいつの間にかクリスチャンにまで影響を与えてしまって「私がこういう人間だからこんな目にあう」とそういう風に考えてしまう。私達はこのような考え方から解放され、本当に恵みにより生きる者として生かされていきたいと思うのです。ヨハネ9章にはそこに陥る姿とまたそこから解放されていく姿を見ることが出来ると思います。
不可解な出来事の中に働かれる
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(1〜2節)
これは仮庵の祭りから帰る途中であるという人もいますし、別の時であるという人もいます。とにかく道の途上で生まれつきの盲人に出会った。弟子達の言葉に当時の考え方が現われているように思います。この人が生まれつき盲目なのは、彼が罪を犯したからか、先祖が罪を犯したからかどちらかであると決めてかかるのです。偏見とは恐ろしいものです。勝手にそれはこういう理由だろうと考えてしまうのです。弟子達もその考え方の中にあったわけです。それに対してイエス様は
「イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」(3〜5節)
イエス様の言葉は彼らの考えとは全く違う。弟子達はこういう不幸には何か原因があると悟っている感じですが、イエス様はそうではなくそれは神の栄光が現わされるためであると答える。私達は自分の限られた頭、小さな理性や経験で考えてしまいますが、神様の考えはもっと大きなものです。私達は神様に色々と文句を言いますが、神様の大きく深い御手を知っていきたいものです。
彼が盲目であるのは神の業が現われるため。これは私達にも大きな励ましとなるのではないでしょうか。私達も「何故あの時に」「何故こうなってしまったのか」と苦しい、悲しい経験を持っているのではないでしょうか。でも神様はそれを『神のわざがこの人に現われるためです。』という言葉で示して下さる。私達も様々な出来事の中で、この言葉を聞かせて頂きたいと思うのです。
リー・エゼルさんは父親がアルコール依存症で小さな頃から暴力の虐待を受けていました。家にいるのが嫌で仕方なく早く家を出たいと考え18歳の時に彼女は家を出た。サンフランシスコにアパートを借り仕事も始めましたが、段々と生活も乱れてきて、結婚を考えてはいませんでしたが、妊娠をしてしまった。妊娠したことを相手の男性に告げると即座に彼女から逃げていった。友達は生まれてきた子は不幸になるのだから中絶しなさいと皆に言われた。彼女は、自分が父親から激しい暴力を受けていたから、絶対に私は子供に対して暴力をしないと心に決めていた。そして堕胎は子供に対しての最大の暴力であると思った彼女は「出来ない。」と思っていた。しかし迷っている内に段々とお腹が大きくなる。
彼女はロサンゼルスに居住地を移し、そこで教会に行くようになった。丁度そこには望まずして出来てしまった子供達を預かり育て養子に出していく組織がありました。彼女はフロフト夫妻の元で出産をし、生まれた子供は養子縁組に出された。教会に行くようになった関係もあり、段々とイエス様のことも分かって、彼女は救われてクリスチャンになった。その教会で青年と出会い、幸せな結婚にも導かれた。しかし幸せが続けば続くほど「こんなに幸せにしてくれたのに、なぜ神様はあの時に守ってくれなかったのか。」とその日のことが悔やまれてならなかった。
彼女が幸せな生活を続ける中で20数年の月日が経った時に、自分が生んだ娘さんから電話が掛かってきた。本来は分からないようにしてあるのですが、色々な形で調べて彼女を見つけ出した。娘さんから「会いたい。」と言われ彼女は非常に迷ったそうです。というのは、今はこんなに幸せだけれども、会うとあの悲しかった日々を思い出して辛くなってしまう。そしてどんなことを言われるかと思うと辛かったのです。ご主人にそのことを話した時に「勇気を持って会ってきなさい。」と言われた。そして待ち合わせの場所で、遠くから明るい素敵な女性がやってきて、一目で娘だと分かった。会うなり娘さんは彼女を抱きしめて「お母さん。私を生んでくれてありがとう。」という言葉が出てきた。お母さんの状況を聞くと堕胎しても当然であったのに、お母さんは私のことを生んでくれた。「私は今幸せな家庭を築いています。」と小さい赤ちゃんも連れてきて「あなたはこの子のおばあちゃんですよ。」と見せてくれた。彼女には悲しいはずのその日が、喜びの日に変わった。
私達は「どうして」と思うことがありますが、神様は神の業が現われるためにそのことをゆるされる。私達にとって嫌なことが神の業が現われるためだと言って下さる。私達はそんな神の業が現われるような生き方に進んでいきたいと思います。
主に従うその時に
ではそのためにどうしたらいいのでしょうか。イエス様は『わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。』と言っています。これは私達はいつか死ぬ時が来ます。その前に私達が出来る時にしっかりとその業をさせて頂くことが必要ですということ。『わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』とあります。ではイエス様がいなくなった時には、イエス様を信じる者達が世の光となる。私達が世の光となるとイエス様は言ったのです。
「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。」(6〜12節)
イエス様は唾で泥を作り彼の目に塗った。ある方は「気持ち悪い。やめて」というのではないでしょうか。でも彼はそれを受けたのです。そしてシロアムの池に行って洗った。「そんなことをしただけで目が見えるはずがない。馬鹿馬鹿しい」と行かないかもしれません。でも彼は言われた通りにシロアムの池に行ったのです。馬鹿げていると思ってもその言葉に従った時に、彼の目は開かれたのです。これは目が二重の奇蹟を受けているのです。目が見えるようになったことと、もう1つは見えるようになった目が物を認識出来るという2つの奇蹟が起こったのです。このような恵みに導かれる秘訣は単純な教えに従ったということなのです。
アラム国の王に仕えていた将軍ナアマンはらい病に罹った。彼はユダヤにすごい預言者がいて、その人に祈ってもらったら、奇蹟が起こるそうだということを聞いて、彼はユダヤまで遠い旅路をやって来ましたが、その預言者エリシャはナアマンに会おうともせず「ヨルダン川に行って7回体を水の中に浸しなさい。」と言ったのです。ナアマンはエリシャが出て来て自分の上に手を置き祈ってくれて、即座に癒されると思っていたのですが、エリシャは出ても来ないで、体を川に浸せとだけいう言葉に怒ったのです。汚いヨルダン川に行くよりも自分達の国の川の方が綺麗だからそちらに行こうかと思ったのですが、その時に賢い僕の「もし預言者があなたに難しいことを言ったのであれば、あなたはなさったのではないですか。川に行き身を浸すというあまりにも簡単なことをやろうともしない。とにかく行ってみることが良いのではないですか。」との忠告を受け入れてヨルダン川に行き7回浸った。6回目までは何も起こりませんでしたが、7回水に浸った時に彼の体から本当に病が消え去りました。彼は異国の民でしたが、神様を信じる者になった。
私達に必要なのは神様に従っていくことです。神様に従う時に、そこに道を開いて下さり業をなして下さる。6回ではだめだったのです。7回入った時にナアマンは癒されたのです。私達にとってもそうです。自分勝手に従うのではなく、神様が言われる通りに従っていく時に、そこに神様の業を成して下さる。
青森の木造町で神様に仕えていた小池与之祐先生の証しですが、教会の保育所を建て直そうとしていました。ところが「教会が公立の保育所を潰そうとしている。」とか、色々な投書も来て、非難ごうごうでした。そんな時に中心的に非難していた人の家が火災にあった。小池先生は祈った時に神様から『汝の敵を愛せよ。』という言葉が浮かんできた。そして夜遅かったのですが、保育士の方々を呼んで、その人達のために炊き出しをした。普段自分達に酷いことをしていた人達のために愛の労苦をした。その後、町の風向きががらっと変わり、それまで保育所建設に猛反対していたのが、「保育所を建て直す時には町の廃園になった公立の保育所を使って下さい。」と逆の風が吹き始めたのです。
青森の冬の問題は雪をどうするかです。近所の人が夜になるとこっそり、園庭に雪を捨てに来ていた。保育士が「小池先生、雪を園庭に捨てていかれたのでは私達はどうしようもありません。」と言われ「そうだよな。やはり言わなくては。」と思ったそうです。しかし祈っていると『自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。』という御言葉がきた。「もうこんなことをしないで下さい。」と言うべきところが「雪を捨てるところがないならば、どうぞ園庭に捨てて下さい。」と言ってしまったそうです。すると周りの方々はニコニコしながら雪を捨てに来た。周りの方々と本当に穏やかな関係がそこから出来てきた。私達には「どうして」と思う出来事が沢山出てくる中で「主よ、どうしたらいいのですか。」と主に従うことによって、神の業にならせて頂くことが大切ではないかと思います。私達が出来る一歩で良いのです。無茶なことをやりなさいと神様は言いません。
「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(ピリピ3章16節)
私達がそれぞれに今出来る一歩を神様に従う。「今、出来ることをしなさい。」と言って下さるのに、とんでもないことをしなさいと言われるのではないかと私達は恐れてしまうのです。私達が今出来る一歩、また次の一歩を踏み出して行く時に、「どうして」というようなことも神の業として下さる。私達はこのことを共に見させて頂きたいと思うのです。イエス様は全ての災い、全ての呪いを身に受けて下さいました。ですから
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)
「どうして。」と思う出来事の中に、主からの光、主からの語りかけを聞きたいと思います。そしてそこに一歩従っていきたい。神様にあって悲しみの日を良き日とされていきたいと思います。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。−主の御告げ。−天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55章8〜9節)
神様は私達に良き道を備えようとしておられる。この人が泥を塗られることを喜んで受けとめ池に行ったように、私達も主に一歩、一歩従い、そこに神様の御業を見ていく者にならせて頂きたいと思います。
私達の中にも弟子達のように批評的にしか見られない心もあります。私達の内なる汚れ、悪い思いを聖めて頂き、全ての中に神の業を見る者と成らせて頂きましょう。イエス様は私達を「地の塩。世の光。」と言って下さいます。神様に従っていく時に私達をもこの世の光として用いて下さる。私達が従う時に、神の業、神の恵みの中に生きられるのです。闇の世界ではなく、光の世界に共に生きていく者とされていきたいと思います。