2005年6月26日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ10章11節〜18節より
牧師 吉田耕三
今月私達は伝道準備月間として1ヶ月間共に過ごさせて頂きました。神様がどんなに素晴らしいお方かを分かることが伝道の原動力であると思うのです。先週はイ・ジョンリンさんを迎えての集会がありました。出られた方は心を強められて神様が本当に生きておられるとそういうことをまた思わせてい頂けたのではないかと思います。私達がますますこのような恵みにもっともっとあずからせて頂きたいと思うのです。そういう中で前回ヨハネの福音書10章から「わたしは門です」というところ学びました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(10章1〜5節)
実はイエス様はこのようにパリサイ人や律法学者達に言っていたのですが、このことが全然彼らに伝わらなかった。
「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」(10章6節)
それで7節以降にイエス様は説明をされた。解き明かされた。例えみたいなもので入っていますから非常に分かり難いということもありますが、もう1度語り始めたわけです。それで前回はわたしは門ですということをご一緒に学んだんです。私達は本当の門であるイエス様から入って行かなければ本当の命にあずかることは難しい。しかしこの門から入っていくならば私達は安らかに導かれ、その命も豊かなものになっていくのだと学んだわけです。
しかし反対にこの門から入らないならばそれは盗人であり、強盗である。私達をだめにしてしまう。色々なものが私達を真の神様から引き離そうとするのです。自分の経験とか考えとか色々な教えもそうでしょう。それらのものに惑わされてはなりません。そして本当の命にあずかることが大切なのです。あなた方は間違えないで下さい。間違ったところから入らないで下さい。本当の門であるイエス様から豊かな道を頂くことが必要であると言ったのです。そしてもう1つのことを11節から教えて下さっているのです。
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(11〜15節)
イエス様はご自分のことを『良い牧者』と言われました。牧者は前回もお話しましたが、あまり見たことも、経験したこともないので、よく分かりませんが、牧者は時には羊のために命をかけるのが牧者です。ダビデという王様がいました。彼は元羊飼いでした。その羊飼いであった時に、実際に熊や獅子と戦い、羊を守った。羊飼いには大変なことが期待されているのであります。ただ羊を食われましたと言うだけではだめみたいです。野獣と戦った証拠として、その足だけを取り返してきたとか、耳をとり返してきたとか。確かにこの人は戦って仕方がない食われてしまった。そこまでいかないと、羊飼いとしての使命を果たしたことにならないようです。結構多くの羊飼いが獅子や熊や狼と戦って命を落とすことがあるそうです。実際にそういうことを見たという方もいるそうです。その様な経験を通してダビデはこう言っています。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23篇1〜4節)
彼は羊飼いがそういう存在であると知っていたわけです。ここでイエス様は『わたしは良い羊飼い』別な言い方をしますと、「悪い羊飼いがいる」というわけです。それはどういうことかと言いますと、ここにありますように、『それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。』本当に羊のことを心にかけているならば、羊飼いは何百匹の羊がいても、1匹1匹を認識して、その様子が弱っているとか、元気であるとかが全部分かる。すごいことであると思いますが、それが出来るのが良い羊飼いでありますね。
私が献身の生涯に入った時にある方から「あなたは羊飼いになろうとしているのですか、雇い人になろうとしているのですか」と言われたことがありました。非常にきつい言葉です。羊飼いは命を捨てます。これでこそ本当の羊飼いです。ここに近い言葉がエゼキエル書にかかれています。
「次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。わたしは生きている、−神である主の御告げ。−わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。−神である主の御告げ。−わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」(エゼキエル34章1〜16節)
「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしのべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。」(エゼキエル34章23〜24節)
エゼキエルを通して牧者について語った非常に厳しい言葉であります。実は先ほどの言葉も献身の時に言われましたが、この御言葉も私によく読むようにと言ってくださった。最初に読んだ時に「あら、こんなに酷いかな。私はそんなではないのではないか。」と思いました。最初に雇い人になりたいのか、羊飼いになろうとしているのかと言われましたから、それなりに一生懸命にやっていましたけれども、見せ掛けとして人の前にそう見せることはことは出来たとしても、自分の本質を見る時に。段々とこういう姿が自分の本当の姿であると教えられるようになっていったんです。
それとともに本当の羊飼いとは正しく主ご自身、ここにダビデとありますが、これはダビデ時代の後に書かれたものでありますから、本当のダビデでないことが分かると思います。正しくイエス様こそが私達の本当の牧者です。そしてこの方こそが私達を本当に養う方であることを私達はしっかりと目を留め気づかされて、この方により本当に養われていくことが大切であることを共に覚える必要があると思わされたわけです。
私達は本当にイエス様を良い羊飼いとして受けとって認めているでしょうか。先ほどありましたが、良い羊飼いは、まず第1に羊のために命を捨てる。これを正しくしてくださったのがイエス様ですね。次に出てくるのは牧者でなく、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると羊を置き去りにして逃げてしまうというのですね。それで狼は羊を奪い散すとこうあるわけです。これは何故かというと彼が雇い人であり、羊のことに心をかけていないから。別の言い方をしますと、本当の羊飼いはいつも心にかけていて下さる。イエス様が良い羊飼いとして本当に私達に目をかけて下さっていると受けとめていますでしょうか。その受けとめ方もただごとではないですね。
14節に『わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。』とありますが、そのことを15節ではこう言い現わしています。『それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。』父なる神様がイエス様を分かっているのと同じように、イエス様は私達のことを分かっている。どうでしょうか皆さん。そういう風に受けとめていらっしゃるでしょうか。私達はこの方をそのように知っているでしょうか。イザヤ61章には
「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、」(イザヤ61章1節)
本当に私達の中には様々な心の傷を持っているのではないでしょうか。いやされないものがあるのではないでしょうか。でもイエス様はそれを本当にいやす、それを本当に分かる。皆さん、悩みや苦しみが、苦しければ苦しいほど、辛ければ辛いほど、本当のその苦しみや悩みを分かってくれる人はほとんどいないと思いませんか。近いところまではあったとしても、本当に理解するのはなかなか難しいものでありますが、イエス様は分かって下さる。それだけではない、そこにいやしを、あるいは解放を与えて下さる。私達は本当にそのお方を知っているということが出来るでしょうか。もし私達がそのようにこの方を知り始めるならば、私達の心は本当にいやされていく解放されていく。
ところが、真の羊飼いであるこの方によって変えられていくのでないならば、私達はしばしばかえって傷ついたりしてしまうのです。言い訳になってしまうかもしれませんが、皆さんは牧師として私に頼ってきて下さいますよね。その中で出来ないことがあります。ここまでのそんなに深い愛の人でもなんでもないわけですから。そうするとその姿がチラチラと見えて「あら」とつまづかせてしまうということがあるわけです。人に頼ると私達はそういう傷を受けてしまうことがあるかもしれませんし、あるいは人からそういう悲しみを受けることがあるかもしれません。
「わたしの群れよ。あなたがたについて、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、羊と羊、雄羊と雄やぎとの間をさばく。あなたがたは、良い牧場で草を食べて、それで足りないのか。その牧場の残った分を足で踏みにじり、澄んだ水を飲んで、その残りを足で濁すとは。わたしの群れは、あなたがたの足が踏みつけた草を食べ、あなたがたの足が濁した水を飲んでいる。それゆえ、神である主は彼らにこう仰せられる。見よ。わたし自身、肥えた羊とやせた羊との間をさばく。あなたがたがわき腹と肩で押しのけ、その角ですべての弱いものを突き倒し、ついに彼らを外に追い散らしてしまったので、わたしはわたしの群れを救い、彼らが二度とえじきとならないようにし、羊と羊との間をさばく。わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしのべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。」(エゼキエル34章17〜23節)
要するに、人に頼って人に求めていく中で、傷つけられて惑わされたわけです。それに対して神様は真の羊飼いイエス様を送ると約束して下さった。私達は真の羊飼いによって養われていく必要があります。それによって私達は本当に強められ変えられていくことが出来るのです。如何でしょうか。私達はこのような養いというものを受けているでしょうか。どうしたら私達はこの様な養いを受けていくことが出来るでしょうか。
1つにはこうして礼拝に来て御言葉のメッセージを聞いたりすることも大切でしょう。しかしそれとともに日毎に神様と自分自身が交わることであります。日毎に神様から養われていくことです。私達は聖書を自由に読むことが許されています。また私達は大胆に神様に祈ることが許されているわけです。今私達は神様と交わることが出来るのであります。ある方は、牧師とか執事の方はそういうことが出来るかもしれないけど、私には出来ないと考える方がいますが、聖書はそうは言っていません。全ての者が同じ様に「万人祭司」と言いますが、全ての信じる者達は神の祭司として神様の元に大胆に近づくことが出来るのです。
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」(ヘブル10章19節)
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10章22節)
私達は大胆に神様に近づくことが出来るのです。それは私達が良い人だからですか。とんでもありません。私達自身は決して神様に近づくことは出来ません。でも御子イエスの血は私達を聖め、だれでも神様に大胆に近づくことが出来るのです。そして私達はこの方と交わることが出来る。この方によって私達は毎日養われていくことが出来るのです。
神様がどんな方でしょうか。ヨハネ福音書の中にイエス様が私達を知ると書かれていますが、もう1つ書いてあるのは『また、わたしのものは、わたしを知っています。』私達もまたイエス様を知るようになる、父なる神様がイエス様を知っているように、またイエス様が父なる神様を知っているように、私達もそのように神様を知るようになると言っているのです。
私はまだまだ初歩ですからと一見謙遜そうですが、これは謙遜でもなんでもありません。かえって神様の力を割り引きしてしまうことなのです。私はひどい者です。私はまだ初心者で何も知りません。でも神様の恵みはこんな私にも溢れています。注がれていますと言って神様の元に近づけばよろしいわけです。私達はもっと深く、もっと豊かにこのことにあずかることが出来るのです。そしてこの方を知っていくことが出来る。この恵み、慈しみ。一番最初に今日の祈りで読ませて頂いたのですが、
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49章15節)
人が忘れても母親が子供を忘れても、わたしは忘れないとこういう意味で私達を覚えて下さる。あるいは、
「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。」(イザヤ54章10節)
山が動くなんてあり得ないことでしょう。先日のスマトラ地震では少し山が動いたそうですが。もっとすごい勢いで動いたとしても、こういう神様の慈しみを、忍耐を本当に知っていると言えるでしょうか。私達はもっともっとこの方を深く深く知っていく者にされていきたいと思います。
「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29章12〜13節)
私達は本気になって神様を求めているなら、私達は神様を見出すだろうし、神様も私達を見て下さいます。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33章3節)
私達はこの神様にもっと大胆に近づき、日毎にこの方と交わり、自分の心の傷もいやされ、自分が様々な罪の奴隷から解放されていく。イエス様はそのために来て下さいました。全ての呪いから私達を断ち切るために来て下さいました。この力を豊かさをもっともっと体験していく。味わっていく。これが今日私達が学ばせて頂きたい第1のポイントということが出来るわけです。
さて、私達がそのように神様を知っていく時に何が起こるのでしょうか。ヨハネ10章に戻りますが、イエス様はこう言っています。
「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。」(16〜18節)
実に私達がイエス様を深く知っている時に、イエス様の心が見えてくるのですね。皆さんもそうではないですか。人と親しく交わっていく時に、その人の気持ちや思いが言わなくても分かってくる。そのような関係が出来てくる。私達はそこまでイエス様のことを深く知っていきたいと思うのです。
今月は伝道の準備期間でしたが、そのための一番の備えはこれですね。もし私達がイエス様の心を知るならば、私達はあの人にもこの人にも色々な人のことが私達の思いの中に上がってくるのではないかと思います。
何度もお話していますが、アン・リスクさんは、戦時中に神社参拝を拒否したために、日本の牢獄に入れられました。その牢獄の中に日本語を話せない満州人の女性がいました。ご主人殺しで捕まったようですが、後ろ手に縛られて食べるのも犬食い。下の物も垂れ流しです。アン・リスクさん自身も本当に辛い苦しいところを通っているのは事実です。、しかし彼女の部屋は天国の出張所とも言われていました。というのは彼女の部屋に来る人が皆変わってしまうからなんです。アン・リスクさんの影響で、怖い顔が穏やかな表情に変わっていくからなんです。
そんな中でアン・リスクさんはイエス様がここに来たらだれの所にいくであろうかなと考えた。当然自分は一番神様を愛しているし、神様に従っているから自分の所に来るかなと思いましたが、来ないなと直ぐに気づかされた。それでどうしたかと言いますと、あの満州の女性の所に行くであろうと気づかされた。この人こそが一番可哀想。イエス様は必ずその人の所に行くと思った時に、私が今成すべきことは、この人の愛を与えることだと気づかされた。看守達もアン・リスクさんの人格に感動していましたから、かなり彼女の言うことを聞いて下さるようになっていたようです。それで彼女は看取にあの人を自分の部屋に連れて来て下さいと頼んだ。それで連れて来てもらいましたが、その途端から目が痛くて仕方がない。アンモニア臭がすごかった。彼女はその時から満州語で「私はあなたを愛しています。」と言い続けた。それも本音を言うとそんなには愛していなかったのだけれども、内に来てくれている聖霊様は愛してくれているはずだからと、そのことを言っていたのですが、その内に「あなたを愛しています。」と言う度毎にアン・リスクさんの目から涙が落ちる。そして彼女のことを本当に想い始めて遂にはその人のために、1日1食しか出てこない食事を断食してその人に与えた。3日、4日経っても「ありがとう」も何もない。当たり前のように食べている。しかし5日目、6日目になってきて始めて何故この人が自分にこんなことをするのだろうかと、変わり始めて彼女もまた捉えられていった。
本当にイエス様の心を知るからこそ、アン・リスクはそのように出来た。私達も本当にイエス様の心を知っていく。その時に私達も喜んで犠牲を払ったり、人に仕えたりしていくことが出来るのではないかと思います。私達もそのように主を知っていく者となっていきたい。伝道。1人でも滅びることは神の御心ではありません。全ての者は悔い改めに導くことを求められている。私達に出来ることはその方々に私達が出来る範囲の愛を与えていくことではないかと思います。
それと共にイエス様はもう1つのこと『彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。』イエス様の御心はいつも分裂や分派ではなく、1つとなることです。それが神の御心ですね。聖書にはキリストの十字架こそ人々の中垣を取り去るものであると書いてあります。イエス様の十字架を見上げ、そのようなものから解放されて、バラバラであったものが1つとされる。本当に主のために生きる群れとさせて頂きたいと思います。先ほどのエゼキエル書には私が目指すべき牧会が書かれてありますが、全くそれが出来ていない。しかし神様によってそのことを変えられていく者となっていきたいと思います。
「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」(エゼキエル34章16節)
私達も主の心を知り、主と交わることによりそのような者にされていけたならと思います。そして同時に、イエス様は自主制、自発性というものを強調していると思うのです。嫌々ながら十字架にかかったのではない。自分から命を捨てて自発的にそのようにすることを期待しておられる、求めておられることを見ることが出来るように思います。
何度も聞いているのですが、青森の木造教会の牧師であった小池与之祐先生のメッセージがあります。先生は元々どもりがあって、そのことで非常に苦しんで自殺も企てたほどであります。でも先生がイエス様と出会い、段々とイエス様と交わりをしている時に、彼のただ1つの願いが何であったかと言いますと「私はこのイエス様の証し人になりたい」ということでした。彼の本当の心からの願いは主の証し人。でもある時に牧師に「でもあなたは言葉がどもりますね」と言われた時に「ええ、どもります。でも私はどもって主を証ししたい。」すると、その牧師が「そうですね。あなたの話は感動があります。」と言われた。小池先生はそのように変えられていった。
また彼は劣等感の固まりで学校など2度と嫌だと思い、普通の人と同じ高校には行かないと定時制高校に行ったのですが、定時制高校も行きたくないと退めてしまうほどでありました。何をしても自分はだめだと考えていましたが、神様のために生きたい、神様の証し人になりたいと、神学校に行く決心をしました。神学校に行っても、牧師の認定試験があって全然答えられない時があった。その時に院長先生が「確かにそういった面は弱いかもしれませんが、あなたのメッセージに私は本当に感動しました。私はあなたのメッセージに涙した。」とその一言で全部通ってしまい、その後豊かに用いられた。元々そういう方でしたが、心を打つメッセージをするようになった。
私達はそれぞれが様々に主に触れられてきています。でもそこで満足するのではなく、もっと主を知っていくお互いとされていきたいと思います。そして主の心に触れて私達もまた、この豊かな命にあずかっていき、それを人々に分かつことが出来るまでに、強めされていきたいと思います。イエス様は良い牧者です。本当にこの方を良い牧者として受けとってきたでしょうか。多くの真の牧者ではないもの。多くの教えや、人間や方策にだまされてしまっていることはなかったでしょうか。共に主の恵みの中に進んでいく者となっていきたいと思います。