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「親子関係で悩むあなたに」

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2005年7月31日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書エペソ6章1節〜4節より
牧師 吉田耕三

今日は「ウエルカム・サンデー」として、新しい方々にもイエス様を知って欲しいという思いで持たれた最後の礼拝で「親子関係に悩むあなたに」というテーマです。聖書の基本的な考え方はエペソ書6章に記されています。

まず十字架を受け入れる

「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6章1〜4節)

これはモーセという人物を通して神様が私達に与えられた大切な十の戒めの中の1つです。最初の5つは神様に対する戒めで、次に人間に対する戒め。その最初に出てくるのが『あなたの父と母を敬え。』です。次が『殺してはならない』です。私達の印象としては『殺してはならない』が最初かと思うのですが、聖書では『あなたの父と母を敬え。』これが人間として生きていく上で一番大切な戒めです。

「親がいない」という人は誰もいません。亡くなったとか、生まれたと同時に捨てられたという意味では「親がいない」人はいます。でも親がいたから生まれたですから「親がいない人」は誰もいないわけです。そして親に対してどういう態度をとるかが、その人が幸せになるか否かのキーポイントなのです。問題なのはどんな親に対しても敬えるかどうかです。

ストーミー・オマーティアンは親から徹底的に拒否され、無視され、暴力をふるわれた。彼女が母親の真珠のネックレスを黙って借り持ち出した時に、怒られ殴られた。口に石鹸を詰めこまれて苦しかったけれど、その時は嬉しかった。それはその時だけは正当な理由で自分が怒られていたからです。このような親を敬えといっても敬うことは出来ないでしょう。でも彼女も神様を信じて変わっていきました。

もう1人は、父親がお酒を飲むと暴れて、両親同士の喧嘩が絶えなかった。遂には母親が家を出ました。彼女はいつ何をされるのかと恐れていましたが、ある時、母親が自分を迎えに来てくれて父親の元から一緒に逃げ出した。しかし父親はしつこくどこまでも追いかけてくる。彼女はそれが嫌で嫌でならなかった。ある時、不思議に教会に導かれて、聖書の言葉『わたしの目にあなたは高価で尊い。』が惨めでならなかった心にストンと入った。すると心が段々と明るくなって希望が出きた。そしてそこで出会ったクリスチャンの男性と結婚した。しかしクリスチャンになったからといって、全てが一気に良くなるとは限りません。特にそのような酷い仕打ちをされた人は「お父さん」と聞いただけで震え上がる。父親は彼女の職場にも、結婚したご主人のところにも電話してきて色々な嫌がらせをしてきた。ある時、ご主人が「お父さんのところに会いにいかないか。このままではなくて、直接会って話をした方が何か解決策があるかもしれない」と持ちかけてくれたのですが、彼女は考えただけでも体が硬直してしまう状態であった。

その彼女の目に聖書の言葉がとまりました。それは墓場にいた悪霊に憑かれた人の話でした。その人は自分の体を傷つけ、大声で叫んだりしていたのですが、イエス様はその人に近づいて悪霊を断ちきり、正気に戻るようにしてあげた。自分は父親が怖いといって逃げるしかないけれども、イエス様はこの悪霊に憑かれた人も愛して下さっている。同じように神様は父親も愛しているし、この悪霊に憑かれた人は父親そのものだと思ったそうです。父親もこんな風に牛耳られている。父親が可哀想だという思いが初めて出て来た。いつもは電話に出なければ何度でも電話をかけてきて、そして出ると嫌なことを言われ続けるのですが、その時は不思議に「お父さんだ」という親しみを込めた思いが出て来て、「お父さん。今まで子供らしいことを何も出来なくてごめんなさい」という言葉が口から出て来た。すると今までどうしようもない父親の態度が「お前は冷たい人間だと思っていたけれども、結構優しいのだな。」と言い、その関係も本当に変わり始めた。遂には父親から色々な物が送られてくるようになり、それが自分が一番好む物や自分にぴったりする物であった。本当は自分が父親そっくりであったことが分かった。そして父親を受けとめることが出来るようになった時に、彼女は自分自身をも受けとめることが出来るようになった。

立派な親もいればそうでない親もいるかもしれません。でもどんな一言でも私達は敬うことが出来るようになれるということです。こんな親を敬うようになれると思いますか。でももし私達の心にキリストを迎えるならばこのことが可能になってくるのです。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2章14〜16節)

私達の敵意は十字架により葬り去られるのです。これが神様が私達の内に成して下さったことです。だからどういう親であったとしても敬うことが出来るようになる。先ほどのストーミー・オマーティアンにしても、到底敬うことの出来ない親です。でもキリストが来る時にそのことが起こり始めるのです。ここにある『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし』イエス様は混乱や破壊のためではなくて、2つのものを1つにするために来て下さったのです。特に大切なのは『敵意とはさまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。』です。

私達の中には様々な戒めの律法があります。例えば「親はこうあるべきだ。」「この人はこうあるべきだ。なのにしてくれていない。」こういう律法。それによって、敵対するようになっていく。これが敵意の本質だというのです。それを全部イエス様が刑罰として受けて下さったと私達が受けとる時に、敵意が消え去っていくのです。私達に必要なのは、キリストの十字架を親子関係の中に適応するか否かです。完全な親はいないでしょう。「何故こうしてくれなかったのか。ああしてくれなかったのか。何故こんな言葉を言われたのか。」ということがあると思います。その1つ1つをキリストの所に持っていき敵意を取り去って頂く。そうすると、敵意があってもなお敬い尊敬することが出来る。もう1つ付け加えますと、親を代える。親を代えることは無理だとお思いになるかと思いますが、本当の親である天地を造られた神様を親とすることです。

親代えをする

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(詩篇139篇13〜16節)

神様ご自身が私達を造り、私達のことを全部見ておられ、それを計画されているのです。私達は肉の両親が本当の親だと思いますが、果たして本当にそうでしょうか。人が生まれるのは精子と卵子の結合です。1つの命が誕生する確率は本当に天文学的な確率です。神様はたった1つの精子と1つの卵子を結び合わせ私達を造られた。たとえ私達がどの親に生まれたとしても、そのDNAを受け継いだとしても、神様がそのDNAを用いて”私”を造ろうと定めて下さった。とするならば神様こそが私達の本当の親なのです。すると肉の親とは”私”が育つために用いられた人物に過ぎないでしょう。もし皆さんを他人が育ててくれたなら、すごい感謝だと思いませんか。でも親ならば当たり前と思う。しかし神様によって”私”を育てるために遣わされた人と考えると「よくもこれだけ熱心に真剣に自分を育てるためにしてくれたなあ。」と思いませんか。私達はマイナスポイントばかりを見ます。でもそのようにして”私”を育ててくれたと思うなら、感謝しても感謝しきれないのではないでしょうか。現代医学がこれほど発達していても、子供を産むというのは命がけです。それゆえにその方に感謝を捧げるのは正当なことであると聖書は語るのです。そしてそれこそが私達が本当に幸せになっていく秘訣だというのです。

親を拒否し続けて「あの人とは何の関係もあって欲しくない。」と思い続けてきた彼女は、親を受けとめることが出来るようになった時に、自分自身を受け入れることが出来るようになった。自分自身を受け入れることが出来るようになると、今度は隣人もを受け入れることが出来るようになっていく。それはいつしか幸せな人間関係へと移っていくことが出来たわけです。私達は親子関係をもう一度見直していく必要があるのではないでしょうか。「私は大丈夫。」と思っていても、案外どこかに不満が凝り固まっていないでしょうか。「私は育てられた。親はそのために用いられた。私は子供として親にどれだけ本当の愛を注いでいるか。」という観点から見ると、不満ではなく申し訳なかったという思いが沸き上がってきて、そして仕えていこうという思いが与えられていくのではないでしょうか。

聖書は『「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。』この言葉をしっかりと心に留めて、なかなか親を尊敬出来ない時に「どうかそう出来るようにして下さい。」と祈っていくことを心がけていきたいと思います。でもここで終わっていては苦しいばかりです。何故ならそう分かっても出来ないからです。そこでもう1つは私達の中には「それをしたくない。」という心が根っからあることを知っておくことは大切かと思います。

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8章7節)

たまたまこういう親だから尊敬出来ない言いがちですが、そうではなくて私達の中には「従いたくない」という反抗心があるのです。神の律法に反発したいという思いがあるのです。まず必要なのは「私は恨んでいます。憎んでいます」という祈りをきっちり捧げていくことが大切なのです。もしもひどい親がいたとしたら、このことを思い出して下さったらと思います。イエス様がその親の前に立って「本当に申し訳ないと思う。可哀想だと思う。でもわたしのこの十字架の故に、この親を赦してあげてはくれまいか。酷いことをしたかもしれない。でもその代わりにわたしのこの十字架では足りないか。」と問われていることを考えて頂きたい。イエス様は私達の罪のためにも死んでくれましたが、同時に私達に酷いことをした人のためにも死んで下さった。

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3章13節)

イエス様が悪霊に憑かれた人のところに自ら進んで近づいてその人を救って下さったことを思い起こした時に彼女は「父親に近づくことは一度もなかった。」ことに気づかされて父親に自ら優しい言葉をかけることが出来るようになったのです。

神様こそが私達の本当の親であることをしっかりと覚えたいと思います。そしてまた私達の中には、親を敬いたくない心があることを認め、十字架によってそれらのことは赦し、聖められて変えられていくことが出来ることを思い起こして頂きたいと思います。そして神様は親を敬うことが出来るように私達を導いて下さっている。そのことを体験していく者となっていきたいと思います。

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