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「なぜ信じられないのか」

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2005年8月7日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ10章19節〜30節より
牧師 吉田耕三

久し振りにヨハネの福音書に戻ってまいりました。ヨハネの福音書はマタイ、マルコ、ルカの3福音書では十分に語りきれていないと思われる部分を語っています。ですので少し神学的で難しいと思われる部分がありますが、非常に大事なところを語っていると思います。私達が信じられないのは、霊的な意味で神様が語っているのに、それが聞こえていないことがあるからだと思うのです。それが今日の中に出てくるのです。ご一緒にその原因とそこからの解放を見ていきたいと思います。

生まれたままでは神のことばは聞こえない

「このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」(19〜21節)

イエス様は前回の場面で「わたしは門である。」「わたしは良い牧者です。」「わたしは自分から自分の命を捨てる。」と色々な話をしました。

「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。」(ヨハネ10章18節)

突然こんなことを聞いたら「一体この人は何を言っているのか。気が狂っているのではないか。」と思う気持ちも分からないではないですね。このイエス様の言葉に色々な反応を示す人が出て来た。ある人は「正しくこれはキリストだ。」と言う。ここに書いてある盲人がの目が癒された。旧約聖書の中でモーセもエリヤなどの預言者も奇蹟を行いましたが、盲人の目を開けたいう記事は載っていません。

「心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」(イザヤ35章4〜6節)

38年も寝たきりの人が癒されたり、盲人の目が癒された。この事は旧約聖書のキリストの預言が成就したことが明らかになっているのです。彼らが素直にこの御言葉を読んでいたならば「イエス様は、やはりキリストだ。これが証拠だ。」とはっきりと断言出来たはずです。ところが同じ現象を見ながら片方は「キリスト」片方は「おかしい」という結論になってしまった。さあ、ここで話が一旦止まり、次に宮きよめの話が出てきます。

「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。」(22〜23節)

紀元前170年頃、シリヤ王アンティオコス・エピファネスがエルサレムの神殿礼拝を禁じました。ヤハェの神を礼拝することを禁じました。割礼を施したら死刑となりました。神殿にゼウスを持ってきてそこで豚の生贄をささげた。そんな中からユダ・マカベオスが立ちあがり神殿を勝ち取り、神様に悔い改め宮を全部聖めた。その時以来ユダヤ人達は毎年12月位に宮きよめの祭りをするようになった。その祭りの最中のことです。

「それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。」(24〜26節)

イエス様は何度もご自分がキリストであると語っています。ところが彼らはもっとはっきりと言って下さい言うわけです。そしてイエス様の行った御わざ、足なえが歩き、盲しいの目が開くという奇蹟が真にこの方がキリストであると証ししているわけです。それにも関わらず彼らはそれを信じようとしない。そして次の言葉は非常にショックな言葉です。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」(27〜30節)

その人が本当にわたしの羊であるならば、ちゃんとイエス様の言葉を聞き分けて従っていくようになるというのです。未だ群れに属していない羊は、声を聞き分けることは出来ないというのです。このことから神様は何を語っておられるでしょうか。

まず第1にイエス様は同じ10章16節で『わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。』と語っています。私達は一生懸命に聖書を勉強すればそれで信仰が持てるというものでもありません。生まれ変わりという特別な体験を通る必要があると聖書は明言しているのです。そうでなければ折角御言葉を聞いても、分からないし受け取ることが出来ないのです。

「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3章3節)

「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3章5〜6節)

人間は肉によって生まれたままでは神様のことが分からないのです。「私は果たして本当に生まれ変わりを経験しているのだろうか。」と魂を吟味していく必要があるでしょう。そして生まれ変わりを経験しているならば、私達は御言葉を素直に受け取ることが出来るでしょう。

「今日から30分は祈るぞ。」「今日から聖書を1日これだけは読むぞ。」「奉仕もするぞ。」「献金もするぞ。」とこれらはもちろんみな良いことです。「やるな」と言っているのではありませんが、だからと言ってそれをしたから生まれ変われるわけではありません。私達は生まれ変わって本当に感謝だから、それを喜んでするというのが本来の姿なのです。生まれ変わるためにそれらをするのではないのです。それならばどうしたら生まれ変われるのでしょうか。

生まれ変わるには

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)

『わたし』とはイエス様のことです。戸の外に立ってたたく戸は私達の”心の戸”です。

「自分は生まれ変わっていないかもしれない。」と感じられるのであれば、私を生まれ変わらせて下さるお方として、救い主として、癒し主として、様々な必要に応えて下さる方として「イエス様をお迎えします。」と祈って下さい。

イエス様は「わたしのところに来る者をわたしは決して拒まない、」と言っているのです。生まれ変わるのは難しいことではありません。だれでも神様のところに行きさえすればいいのです。「私は汚いことを沢山やってきた。」「汚れているから。」「罪があるから。」などは関係ありません。それらは私達がイエス様に直行できる助けにこそなれ、妨げにはなりません。そのままで「イエス様、私を救って下さい。」と申し上げればいいのです。私達がするべきことは心の戸を開く。入るのはイエス様がなさることです。入って来て私達を内側から造り変えて下さるのです。

具体的に言いますと、聖書の言葉が分かるようになってくる方が結構います。それまでは何を言っているのか分からなかった聖書が「イエス様を信じます。」と告白して祈っただけで、読むたびに涙が出るてくる方もいるそうです。もし皆さんが心の戸を開くならば、そのことが起こるのです。難しいことが何も分からなくてもこのことが起こります。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)

心の中に暗闇や悲しみを持って「イエス様。助けて下さい。」と祈ることです。イエス様はその問題を癒し解放して下さるのです。そして生まれ変わりを体験していく。生まれ変わりなしでは聖書の言葉は、なかなか入ってきません。

イエス様は何度も自分がキリストであると言っても彼らには分からなかった。ユダヤ人達には1つの願いがありました。自分達の国をダビデやソロモン時代のように世界の冠となるような国に引き上げて下さるリーダーを求めていたのです。ところがイエス様は弱った人の所に出掛けて行ったり、困った人を助けたりしている。イエス様のしていることがユダヤ人達の目にかなわなかった。自分達の願いにかなったキリスト像ではないので、それが分からなかった。私達の中に自分の願いや考えが強すぎると受け入れることが出来なくなってしまうのです。イエス様を救い主として受け取る時に御言葉への抵抗がなくなってくると思います。

私も初めて聖書を読んだ時は2ヶ所読んだだけで閉じてしまいました。5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人が食事をした話と天地創造の話を「20世紀に変なことを言う書物だ。これがベストセラーか。」と飽きれて閉じてしまったのです。自分の考えが強いと真理を聞いても受け取れないのが私達なのです。「私の目を開いて下さい。分かるようにして下さい。」と祈る時に聖書の言葉が段々と私達の心に沁みてくるようになる。付け加えておかなければならないは、生まれ変わりという1つのハードルがある。さらにもう1つハードルがあるのです。

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8章4〜8節)

肉とは肉体という意味でありません。それも含まれますが、考え方、姿勢、思いなどそれら全部を含めて”肉”といっています。これは神の律法に服従できないのです。神様の言葉を聞くと反発する心が私達の中に潜んでいるのです。ですから神の言葉を受け入れたくないという心が私達の内に働くのです。神様は私達が肉の生き方に死んで、御霊によって生きるために生まれ変わりを与えて下さるのです。しかし私達の中には御霊による生き方と肉による生き方の2つが存在しているのです。ある時は自分で惚れ惚れするほど良い人なのです。優しくて思いやりがあり親切で、へりくだっていて、朝きちんと聖書を読んで祈って「今日の1日の一切をあなたに従います。お任せします、」とディボーションをして清清しくて1日を始められる。

ところが次の日には絶えず頭から角が出てちょっとしたことにもイライラして怒ってしまうし、これが同じ人かと思うほどに違いがある。肉によって歩む時の私達は滅茶苦茶です。御霊によって歩んでいるほうが良いに決っているでしょう。ところが私達は直ぐに騙されるのです。御霊は「赦すこと」と言われて早い内なら気づいて祈って直ぐに赦せるのです。ところがその時に違うものが「赦すなんてやめな。図にのって何をするか分からないから、少しくらい厳しいことをしなくてはだめなんだ。」という囁きにうなずいてします。私達の人生経験からいうと肉に従う方が良い様な気がしてしまうのです。ところがそちらに従ってしまうと無茶苦茶になります。ですからいつも神の御言葉、神の御霊に従う。でも従うことは自分では出来ないことも知って下さい。自分で従おうとすると失敗します。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」(ローマ7章15節)

赦さなければならないのに、赦せないし、怒ってはいけないのに怒る。これは自分で頑張って御言葉に従おうとした人の姿です。ではどうすればいいのでしょうか。「神様させて下さい。その力がありません。出来るようにして下さい。」と祈り任せること。気が付くとそのことが出来ているのです。私達は色々な思いに惑わされて神の言葉に従えなくされているのです。どうぞ御言葉を素直に受けとめていきましょう。それには自分の心の中に神の言葉に逆らう心があることを自覚することです。ですから簡単に囁きの言葉に納得しないで下さい。そして御言葉に従い始めると、不思議に心が穏やかになり、人も赦せて平安になって喜んで歩めるようになっていくのです。これが私達に必要なことです。

ところがこのことを忘れてしまう時にイエス様が語ってもその言葉を聞くことが出来なくて「イエス様はちっとも答えてくれない。」とか「私のことを愛してくれていない。」とかなってしまう。イエス様は命を捨てたのです。それ以上何を捨てることが出来るのですか。命よりも大切なものはありますか。その命の捨て方もただ単に死んだのではないです。頭には、いばらの冠をつけられ、背中は鞭で打たれ血だらけになり、脇腹を刺され。痛みを鈍らせる酸いぶどう酒をも受けつけず、とことん痛みを受け切って下さった。イエス様が命をかけて「あなたを愛しているんだよ。」と言っていても、私達は「イエス様の愛が分からない。」と思ってしまう。私達に必要なのは「心の目を開けて下さい。心の耳を開けて下さい。」と祈ることです。先程の黙示碌にこう書いてあります。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示録3章17〜19節)

「私の目が見えないのだ。耳が聞こえないのだ。どうぞ開けて下さい。」と祈りましょう。私も信じる前は神様に敵対していました。「どうせもう見捨てられた方だ。」と言う方もいるでしょう。でもパウロのことを考えて下さい。パウロはキリストをとことん迫害しました。彼はそれが正しいことだと思ったわけです。生まれ変わらなければだれでもそうなのです。私達にとって必要なのは生まれ変わりなのです。生まれ変わりが与えられた時に「なるほど」と分かるのです。その時にパウロは目からうろこが落ちたと書かれています。私達の目のうろこも取ってもらう必要があるのではないですか。耳栓を取ってもらう必要があるのではないですか。「どうぞ見えるようにして下さい。聞こえるようにして下さい。」と、これが私達の必要な祈りではないでしょうか。その時に私達の心にもそのことが分かるようになってきて御霊によって歩むことが出来るようになっていくのです。

エゼキエル書に、もう1度エルサレムに神殿が出来ることが預言されています。神殿から水が流れ出ると書かれていますが、これは聖霊を指しています。その水が流れるところ、全て栄えていくのです。この水が入ると、今まで沈んでいた魚も生き生きするのです。今まで枯れていた木々が、生きかえってきます。神の御霊が流れていくところは、このような神の祝福にあずかることが出来るのです。そして現在神の宮はどこにありますか。エルサレムにあった神の宮は壊されました。神の宮は”私達”だと言われています。イエス様を信じる人の内には神の御霊が宿っている。その人がこの流れを閉ざしさえしないならば、御霊の流れは私達を通して周りに流れていくのです。そしてその流れたところはみな栄え、生き生きとしたものになっていくのです。私達は、肉の生き方に死んで、御霊に委ね従う生き方に立っていく。その時に私達が祝福の基として用いられることに気付くのではないかと思います。肉にある生き方は今までの生き方です。これからは御霊による生き方に転換する。折角御霊による生き方にされたのですから、祝福の基として家庭でも職場でも用いられていく者に共にされていきましょう。

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