礼拝/祈り会のライブ中継ページはこちらから

「肉にある者と御霊に従う者」

この記事は約12分で読めます。

2005年9月11日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ローマ8章1節〜11節より
牧師 吉田耕三

前々回から肉と御霊について学んでいます。少し分かりにくい概念ですが、非常に重要な事柄です。本当にそのことが悟れるように、分かるように、納得できるよう心の目を開けて下さいとそんな祈りと思いで聞いて下さればと思います。

私はクリスチャンになる前は、勉強嫌いで本もあまり読みませんでした。でもクリスチャンになってから信仰書に関しては読めるのです。一番多かった時は1月で50冊、60冊読みました。でも読んでいくうちに段々とこの著者達と自分の信仰生活が随分違うなと感じるようになりました。彼らはすごい喜びに満たされている。ある人は信じる早々に福音を伝えるために出て行く。何故こうも違うのかと思いました。長い年数を経てもう1度同じ本を読んで感じたのは、肉によって歩むか御霊によって歩むかが明確になっていくことにより信仰生活がガラッと変わっていると思ったのです。それでヨハネ書の途中でしたが、もう1度このことをお話しているわけです。是非とも理解出来るようになって頂けたらと思うのです。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7章24節)

これは自分の頑張りで神様に従っていこうとした人の姿ですとお話しました。神の律法は正しい、神の教えは正しい。だから頑張ってそれに従っていこうとした人。そうすると7章15節からの状況『私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。』に陥ってしまうのです。聖書の教えは正しい”だから頑張って従おう”。ここです。自分の力が問題だったのです。でもパウロが『ほんとうに惨めな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。』と言えたのは幸いでもあるのです。もし私達が本当にこの告白に導かれているとするならば幸いです。何故ならその人は、もはや自分に頼ろうとしないからです。自分に頼ってもだめに決まっている。失敗にするに決まっていると悟っているからです。でもそれで終わってしまうのではなく御霊による新しい生き方が出来るようになるというのです。そのために何が大切でしょうか。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(1節)

「本当に惨めな人間である」という自己認識に導かれた人は、次に「神の教えに従うことができない。こんな私は救われていないのではないか。まだ赦されていないのではないか。まだ神の子供にされていないのではないか」と疑ってしまうのです。クリスチャンになったと言いながら、他人を妬み、罵り、悪口を言い、嫉妬する。こんな風で本当に救われていると言えるのかと思ってしまうのです。御霊により歩むために大切なのは「もう決して罪に定められない」この確信にしっかりと立って歩むことです。

「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10章22節)

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」(ヘブル10章19節)

これは何か特別な人にだけこう言っているのではありません。私達に言っているのです。「毎日罪を犯して、毎日神の御心に背くような私が神様の所に近づいても神様は答えてくれないのではないか。」とか「私はだめだ。」というマイナス的な考え方が入ってしまっていることはありませんか。自分を見るならそうかもしれません。でも私達が神の子供といわれる理由は、私達の行いですか、私達の心の聖さですか。違います。イエス・キリストの十字架の贖いゆえに、私達は全く赦され、聖められている。たとえどんな者であれ私達は神の子供なのです。

エペソ6章に霊的な戦いをするために、神の武具をしっかりと身につけなさいとあります。私は救われている。私は神の子供とされている。私の祈りを神様は聞いてくれている、神様は私に恵みを与えようとして下さっている。今この確信に立っていますか。イエス様の十字架のところに行ってください。イエス様の十字架はどんなに私達の罪が汚れていようとも聖められるのです。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1章18節)

どんなに汚れていても、赦される、聖められる。この確信を投げ捨てないで下さい。「お前みたいにひどい生き方をしている者はだめだ。」とささやく者がいるのです。その時にこの確信に立っていないと私達の心は「そうだ。」とすぐにうなずいてしまいます。すると神様の恵みの中に歩むことが出来なくなってしまうのです。御子の血は全ての罪から私を聖めたという確信を寸分たりとも動かしてはなりません。悪口を言った、怒りを燃やした、こんな私は神の子と言えない。そういう思いではなく、御子の血はその私のためであった。性懲りもなくこんなこともしてしまう、あんなことも言ってしまう私を救うためだと受けとって下さい。「こんなに罪ばかり犯している私は、神様の恵みにあずかることは出来ない。」という思いは悪しき者が与える偽りの確信です。本来、私達は聖い神に近づけば木っ端微塵に飛ばされてしまわなければならないほど、神様は聖い方です。でもイエス様の十字架には完全な赦しがあるのです。この土台に立ってこそ、恵みの生活が始まるのです。

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(2節)

パウロはピリピ4章13節で『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』と言いました。パウロは能力も力もあったでしょう。しかし彼は『キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』をしっかりと受け取り、信じ味わっていたからこう言い得たのです。多くの人は「私は弱いから、私は罪人だから出来ません。」で終わってしまうのです。これでは信仰を働かせていないのです。「それでも私は、私を強くして下さる方によってどんなことでも出来る。」という思いに立っていくのが信仰者の生き方なのです。

もう少し細かく説明しますと『罪と死の原理』とあります。原理とは「法則」。例えば万有引力の法則が働いていますから、物は上から下に落ちます。同様に私達の中には罪と死の原理が働いていると聖書は語っています。自分に悪口を言われたらイライラする原理が働き始めます。何かされたら、妬んだり、嫉妬したり、恨んだりの気持ちが自然に発生してくる。人を妬む、恨む、嫉妬する時には『罪と死の原理』が働いていると納得して下さい。でも幸いなのは罪と死の原理が働いていますが、『いのちの御霊の原理』が罪と死の原理から私達を解放したというのです。物が上から下に落ちるのは当然ですが、途中で手で支えれば、その物は手より下には落ちていきません。万有引力の法則は働いていますが、違う力が働くと落ちないのです。新しい力が加わることによってそれが変わることがあるのです。私達の中に『いのちの御霊の原理』が働くならば罪と死の原理が留められる。自分の悪口を言われて普通なら「罪と死の原理」が働くのですが、『いのちの御霊の原理』によりそんなには落ち込まない。

私がクリスチャンになって暫く経過して味わったのが悔い改めの恵みでした。自分の問題や罪を認めて神様に「ごめんなさい。」と言いますと気持ちが楽になって嬉しくなり喜びが出てくるのです。普通は自分の罪や弱さを認めると「どうして俺はこんなに馬鹿なんだ。」と落ち込むだけなのに、自分の罪を認めると気持ちが明るくなり元気になっていくのです。私達が『いのちの御霊の原理』を働かせるにはその都度「神様、助けて下さい。」とお委ねすることです。私も失敗するのですが、時間がないと焦ります。それで頑張るのですが、そんな時に少しでも邪魔するものがあると、カッとなってしまう。肉の力でやるとこうなってしまうのです。それではどうしたらいいのでしょうか。「神様時間がありません。助けて下さい。お任せします。」とこれだけです。何度も経験してきました。到底間に合わないはずが、委ねた時に全てがきちんと上手くいくのです。今日の結論は”お任せする”ということなのです。

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(3節)

肉の力で頑張って「絶対に人を妬まない。絶対に人を憎まない。絶対に愛の言葉だけを言おう。」と決めて1時間もしないうちにそれがだめになっていく経験したことはないでしょうか。肉の力は無力だというのです。では肉の力で出来なくなっていることを『律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。』要するに私達が出来なくなっていることを全部キリストがその責任を負って十字架に掛かって死んで下さったということです。私達は「出来ない。」と慌てる必要はないのです。神様にお任せすればいいのです。十字架と復活の力によって打ち勝っていく力を神様は備えて下さっているのです。

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」(4〜5節)

自分の力で頑張っていますと自分の惨めさや力の無さや愚かさや傲慢さばかりが心をいっぱいに占めてくるようになります。そういった人は『肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えます。』これはクリスチャンでもそうです。皆さんはクリスチャンは段々良い人に変わっていくと思っていませんか。確かに神様によってそういうお取り扱いを受ける部分もありますが、肉にある時には何年クリスチャンをやっていても酷いことを言ったりやったりしてしまうのです。人との競争心とか、妬みや嫉妬や裁きしか出てこない。これでもクリスチャンと言えるのだろうかという状態です。これは肉にある時なのです。

病気かどうか調べるのに熱を測ります。同様に自分が肉によって歩んでいる時は四六時中、嫉妬や裁きや高慢や色々なものが出てくるのです。どんなに良いことをしようとしても肉の力では出来ないのです。私達に必要なのは御霊による生き方なのです。「本当に私はどうしようもない高慢な者です。お任せします。」と明渡すこことが大事なのです。そして御霊に従うと『御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考え』るようになる。「今日は神様をほめたたえたい気持ちでいっぱいだ。何とかして神様に従っていきたいな。」と思っている。本当に神様から愛されたい。神様を愛したいと素晴らしい心があるのです。ところが次の瞬間ある出来ことを通して裁きや嫉妬の思いが出てくる。一体どちらが本当の自分なのかと思います。両方とも本当の自分です。皆さんはどちらでいたいですか。さらに、

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(6節)

クリスチャンでも「もう生きているのが嫌だ。死にたい。」と思う時がありませんか。これは肉に歩んでいる兆候なのです。こういう状況になった時に、多くの方は「結局私はいつまで経っても変わらない。」こういう間違った考え方、確信を持ってしまうのです。肉によって歩んでいるからこうなっているのであって、御霊によって歩めばいいのです。御霊によって歩むとその気持ちはがらっと変わるのです。ですからこのことを知識としてではなく、実際の生活の中で当てはめ味わうようになって頂きたい。ところがここでもう1つの問題が出てきます。

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」(7〜8節)

どんなに頑張っても肉の力では神様に従うことが出来ないと早目に認めて下さい。一生懸命に頑張ってもがっかりするか苦しいと感じるだけです。肉によっては神に従っていくことは出来ないと認めることです。でもお任せする時に、私達は律法を全うするようになります。御霊によって歩む時には、本当に神様に喜ばれることが出来るようになっていくのです。この場合に果たして自分が御霊の中に歩んでいるのかどうか心配な方がいるかもしれません。

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(9〜11節)

自分の中に御霊があるか不安だという方は次のことを言ってみてください。

「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(第一コリント12章3節)

毎日神様を悲しませるようなことしか出来ない、ちっともクリスチャンらしいことも出来ていない者であったとしても、あなたが「イエスは主である。イエス様は私の罪のために死んで下さった。」と告白出来て、この方に従っていきたいという思いが与えられているならば、あなたの中に御霊は来て下さっている。まだ御霊が来て下さっていないと思う方はイエス様を信じる信仰に導いて下さいと祈ったらいいと思います。

次に御霊を頂いた人の状態はどういう風かといいますと、空の瓶に少しだけ水を入れます。その瓶を指で蓋をして、水槽の中に入れます。瓶の中に水は入っています。これは私達がイエス様を信じて聖霊を受けていることを象徴しています。周りは水だらけです。9節にある『あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。』イエス様を信じている人は自分で気付かないでも御霊の中にいるというのです。でも瓶(自分)の中はと言いますと、水が少しで空気がいっぱいです。それは妨げているものがあるからです。指を外せば周りの水が中に入り、瓶の中は水で満たされるでしょう。私達も同じ様にイエス様を信じていても、内に来ている聖霊様を頼らない状態の時には御霊は満たされないわけです。自分の罪を認めて、後はお任せしますと任せた後は、聖霊様が来て下さり皆さんを満たして新しい生き方をさせて下さるということなのです。

私達は「本当に任せてしまって大丈夫かな。」と心配になるのです。でも任せると不思議にそれが出来るようになっていくのです。自分の弱さを頑張って克服するのではなくて、自然にそれを乗り越えていく力が与えられる経験をするようになります。問題は単純です。私達の内に来て下さっている方にお任せするかどうかなのです。パウロは『私は、私を強くして下さる方によってどんなことでもできる。』と言えたのです。これはパウロだけの経験ですか。彼は自分を誇るために言ったのでしょうか。いいえ、私達全ての共通経験になることができるからです。「私を強くして下さる方によってどんなことでも出来る。」という確信に立ってお任せしていく。神様がその時に思いもよらないことを私達にさせて下さる。「ハレルヤ。神様感謝します。神様は本当に生きておられます。」このことを味わい知っていくことが出来るようになるのではないでしょうか。この恵みに共に進んでいきたいと思います。

タイトルとURLをコピーしました