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「御霊に導かれる人」

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2005年9月18日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ローマ8章12節〜17節より
牧師 吉田耕三

クリスチャンの生き方の大切な秘訣に”肉による生き方と御霊による生き方”という非常に重要なポイントを学んでいます。皆さんは自分の情けなさを悲しんだことや「これでもクリスチャンと言えるのか。」と思ったことがあるかもしれません。しかしあまり悲しみ過ぎないで下さい。それは当然のことだと聖書に書いてあります。

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8章5〜6節)

私達は自分勝手で高慢で、嫉妬や妬む行動や考えを持っていないでしょうか。黙って誰にもいいませんが、神様は皆さんの心の中はご存知です。私達は一生懸命に押さえこんでいても、時に爆発するような生き方になってしまっている。これは肉によって歩んでいるクリスチャンの状態ですが、御霊による歩みに変えられていく。私達には希望があるのです。それは『御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。』とあります。聖書を読んでいて恵まれてきますと「自分に何か出来ることはないか。神様に何かお仕えしたいな。あの人にこんなことをしてあげたら良いのかな。今まで恨んでいたけど、本当はあの人のために祈らなければいけないのだ。優しくしていかなければいけないのだ。」というように今までと違う考え方が出てくるのです。どちらの生き方がしたいですか。両方とも私達の手の中にあるのです。肉的な生き方をして恨みや妬みや嫉妬の中にがんじがらめになるか、それともいつも隣人を愛し神様に喜ばれる生き方になりたいでしょうか。私達は当然こちらになっていきたい。ところが「なかなかそれが出来ない。」という経験を多くのクリスチャンはしているのです。

「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」(12節)

私達は義理がたいようですね。何十年間も肉に従ってきたのだから、簡単に鞍替えをしてはだめだと「神様にお任せするなんて自分勝手だ。もっと努力してやらなければだめでしょう。」と古い生き方に戻ってしまうことがあるのです。私達は御霊によって生きることをもっとしっかりと受け取らなくてはならないのです。でも注意しなければならないことは自分の肉と混ぜてしまい、神様が「あれをしなさい。これをしなさい。」と言っているのに、「私はしたくないからしません。」とやらない。私達は委ねていく時に神様から「あのようにしたい。このようにしたい。こうやらせて頂きたい。こうさせて頂きたい。」と志を与えて下さる。私達は「そんなことは出来ないからやらない。」これは間違っているのです。「もう出来ません。だから神様あなたにお任せします。どうかそれが出来るようにして下さい。」とお委ねしていく時にそれが出来るようになっていく。でも今お話しましたように私達はすぐに戻ってしまうのです。だから正しい生き方を貫くのです。私達は肉に従って歩む責任があるように思うのです。そんなお任せばかりしていてはいけないと思ってしまう。でも私達は本当に主に委ねていくことのほうが大切なのです。

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(13節)

私達が神様にあって委ねて生きる時に感謝と喜びと希望があって、そういう生き方が出来ていたのに、古い生き方に戻ってしまった時からクリスチャン生活が「苦しい。大変だ。しんどい。」と”苦しいちゃん”生活になって生きる喜びが消えていってしまう。ではどうすればいいのでしょうか。『もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。』例えば憎しみが出てきた時に、今までは「憎しみは出てはだめだ。」と押し留めたから「これでいい。」と思ってしまいますが、するとこちらから憎しみが出て来てしまうのです。必要なのは「私は妬みがあります。ごまかして隠して誰にも言わないできましたが、あなたと私だけは知っています。」それをごまかすのでもなく、言い訳するのでもなく正直に言い、お任せしていく。その時に憎しみが消えていくのです。頑張って押さえ込むのではなく、自由でありながら変わっていく生き方をすることが出来るのです。それにより、私達は再び生きることが出来る。

ここでもう1つ付け加えたいのは、すごく簡単ですぐに出来そうな気がするのですが、”肉”は、そんなに簡単なものではない。神様にとって難しいという意味ではなく、私達がすぐに騙されてしまうという意味において難しい存在であることは是非覚えておいてください。例えば神様が「こうしなさい。」と言ってきても「面倒くさいな」という思いは肉です。「面倒くさい」を委ねたらいいのに「これでいいのだからしなくていい」という考え方になってしまう危険性がある。するといつの間にか神様に従っているつもりが、とんでもない迷路に入ってしまうことがあるのです。”肉”は騙しやすいし、また騙されやすい部分があることをわきまえて、瞬間瞬間に神様の御言葉に従っていくことが大切。そのために

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(14〜16節)

自分が救われなければならない罪人であると認めてイエス様を信じた時に、神様は私達の内に「アバ、父」と呼べる御霊を注いで下さった。「お父ちゃん」と親しさを込めて親を呼ぶことが出来る関係を持てるようにして下さったのです。そのような交わりを続ける時に私達は自分が神の子供とされていることが分かるのです。だから私達はますますこの神様の恵みの中に進んでいこうではありませんかと言っているのです。さらに

「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(17節)

私達が神の子供であるということは、相続人であるというのです。神の世継ぎとも言われています。それだけでなく『キリストとの共同相続人』とはキリストと私達は兄弟関係にあるのです。

「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8章29〜30節)

これは私達のことです。皆さんの将来図が描かれています。その将来像はイエス様に瓜二つです。それが定まっているのです。そのために私達は訓練されたりしているのです。それはイエス様の姿に変えられていくためです。そしてイエス様が兄弟達の長子となられるとは、私達はイエス様の兄弟になるということ。私達にはとてつもない地位、とてつもない祝福、とてつもない栄光が用意されているのです。聖書の多くの箇所が現実になってきたようにこれらのことも必ず現実になるのです。私達にはこういう祝福が待っているのです。「それなら私ももっと変えられていきたい。変えられなくてはならない。」と思うのではないでしょうか。だから私達は御霊に導かれて歩んでいくことが大切なのです。御霊に導かれていかないと変わっていかないのです。肉にあって歩んでいくと成長していかないのです。「長い間時間が経てばその内に変わるでしょう。」と何もしないなら変わりません。本当に瞬間、瞬間神様に明渡していく中で変えられていく道を共に歩ませて頂きたいと思います。

イエス様はある時に新しいワインは新しい皮袋に入れなさいと言いました。新しいワインとは喜びのことでもありますが、聖霊とも考えて下さればいいと思います。新しいワインを古い皮袋に入れると、古い皮袋は破れてしまう。新しいワインは発酵するので膨れて皮を破ってしまうからです。私達は古い生き方に舞い戻ってしまうのです。そうしないように、新しい生き方に前進していくようにと何度も重ねて言っているのです。

前回話しましたように、肉にあっては何も良いことはないのです。苦しくなってイライラして辛くなって。そういう苦しい状態になったら「自分がずれていないか」と神様の前に出て下さい。肉によって歩んでいる可能性があります。そしてそれに気付いたら主にお任せする。古い生き方ではなく、いつもイエス様を見上げて十字架により、いのち御霊の原理が罪と死の原理からあなたを解放しているのです。そのことを忘れ、古い生き方に舞い戻ることのないようにしないと言っているのです。

もう1つは委ねるというのはそんなに簡単ではないのです。それは肉の生き方は私達を喜ばせるからです。そちらの方が慣れているからなのです。たとえばプライドが傷つけられたら肉は「言い返せ」と言うのです。反対に御霊は「祈りなさい。」と言うのですが、肉は「嫌だ」と言うのです。皆さんはどちらも出来るのです。しばしば私達は「出来ない。」と思うのですが、出来るのです。「私には出来ませんから祈れるようにして下さい。」と気付くと祈れていると思います。そのことについて明渡していくと出来るのです。あの問題、この問題も1つ1つ神様に明渡していく。そうしたら出来るようになるのです。

家内と婚約中の時に、入院していた家内のお祖母ちゃんに初めて会いに行きました。その時に私は祈るべきだという導きを感じたのです。でも初対面の人に「祈ります。」と言ったらまだキリスト教のことも全然知らないし、特に彼女は仏教に得度しているような人でしたので「それはちょっと」という気持ちを持ちました。これは肉です。冷静に後から考えれば、御霊が「祈れ」と言っていたと分かったのですが、結局その時は帰って来てしまったのです。その時は神学生でしたから祈ればいいのに、それを避けてしまった。神様の権威ですから分かりませんけれども、私の想像としてはもしこの時に祈っていたなら、その場で導かれたかもしれないかなとも思いました。でも私はそうしなかったためにずっと後になって、神様はお祖母ちゃんを仙台に送って下さり、この場所で信仰に導いて下さった。

神様は私達に様々な形で御霊によって色々な思いを起こして下さる。でも自分のプライドとか、「ここで祈ったら変に思われる。」とかごまかして御霊の導きに従えない。肉の思いは神様の導きに従わせない。でもその瞬間に問題を神様に明渡していくことが大切です。すると神様はそうさせて下さる。この新しい方にもっともっと親しんでいきたいと思います。神様に委ねて明渡す。「そんな生き方はおかしい。」と思ってしまうのです。そうではなく主によって喜びの中に歩むクリスチャンとして新しい生き方を御霊によって歩むませていただきたいと思います。

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