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「死で終わるものではなく」

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2005年10月2日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ11章1節〜16節より
牧師 吉田耕三

久し振りにヨハネの福音書に戻って参りました。今日の11章からはイエス様の十字架が鮮明に描きだされていきます。イエス様はヨハネの福音書で、
2章ではカナの婚礼の席で水をぶどう酒に変えた。4章ではカペナウムで役人の息子の癒し。5章ではベテスダの池のほとりで38年間寝たきりの男性の足が治り立ちあがった。6章では5千人の人が5つのパンと2匹の魚で満腹になった。6章では湖の上をイエス様が歩かれた。9章で盲人の目が開かれた。
こういったことを通して確かにこの方が神の子供であることを証しして下さった。ある時にバプテスマのヨハネがイエス様が約束された救い主であるのかと迷った時に、自分の弟子達をイエス様の元に遣わし質問させた。

「イエスについてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」と言わせた。ふたりはみもとに来て言った。「バプテスマのヨハネから遣わされてまいりました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか。』とヨハネが申しております。」ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。」(ルカ7章17〜22節)

それによってイエス様が誰であるのかが分かるからです。こういった事柄は確かにイエス様は神の子であることを悟るために教えて下さったのですが、その中でも一番典型的な事柄がこれから学びますラザロのよみがえりです。今までもイエス様は何人かを癒すことをしていましたが、これは死んで直後のことでしたので、ある人々には「もしかしたら死んでいなかったのかも」と思うことも出来ないことはありません。でもラザロに関しては絶対にそう言えない。何故ならラザロは死後4日も経っています。彼らはイエス様が死んだ人をよみがえらせることが出来ることをはっきりとこの出来事を通して見たわけです。

愛されているからこそ試練がある

「さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」(1〜4節)

イエス様が愛された家族であるマルタ、マリヤ、ラザロという姉弟です。そのラザロが重病で死に4日も経過していた彼が生き返った。これが神の奇蹟以外に説明しようもない事実を彼らは見ているのです。ですからこの出来事を見て「イエス様はまさしく神様だ。」と人々が群がるわけです。そしてこのままにしておくと大変なことになるというわけで議会でイエスを殺すことが決まるわけです。ところがイエス様はこのことを『栄光』と言っているのです。

「すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12章23〜24節)

イエス様は死ぬことが栄光だと言っているのです。ですからここは深いことを言っていると見ることが大切です。話をラザロ姉弟に戻しますが、恐らく彼らの両親は早くに亡くなったのであろうと思われます。仲良く一緒に神様に従っていたこの家族をイエス様はとても愛された。マルコの福音書を読みますと、イエス様が十字架に掛かる前には、日中はエルサレムに入り、夕方になるとベタニヤに戻ったことが記されています。多分ベタニヤの彼らの家に泊まったのではないかと想像出来ます。このラザロを『あなたが愛しておられる者』と称しています。でもこれはラザロだけでしょうか。これは私達に対しても語っている言葉なのです。神様は私達をもそうして下さっているのです。

マリヤは葬儀の準備としてイエス様に香油を塗りました。イエス様がこれから受けようとしている事柄を悟っていた。本当にイエス様を愛し理解している者達であったと思うのです。もしかしたら家族の中でも特別にラザロを愛されたのかもしれません。マルタやマリヤをして『あなたが愛しておられる者が病気です。』と言わしめる。私達なら「イエス様、大変です。弟が亡くなりそうです。直ぐに来て手を置いて下さい。来なくてはだめです。」と無理矢理に手を引っ張ってくるかもしれません。でも彼女達にはそんな気配はありません。『あなたの愛する者が病気です。』と言うだけです。これだけ言えばこの方は自ら進んで飛んで来て手を置き癒しの業をなさって下さるだろうと思ったのでしょう。ところが

「イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」(4〜6節)

イエス様はラザロを愛しておられた。だからイエス様は直ぐに飛んで来て癒されたというのなら分かるのですが、愛されているのに直ぐには来てくれなかったのです。その理由は「愛」なのです。私達は愛されているから困難や試練がないのではありません。かえって愛されているからこそ、そういったこともあるということを覚えたいものです。

「その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」(7〜15節)

ここは前の章を見てみると分かるのですが、

「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。」(ヨハネ10章31節)

これは冗談ではなくイエス様を本当に石打しようとした場所です。今酷い目に合わされてきた場所にまた戻ろうというのですから、弟子達はどうしてそこにまた行くのかというわけです。昼間はつまずくことはない。だからわたしと一緒にいる間は大丈夫だから行きましょうということです。弟子達はラザロが眠っただけと非常に軽く考えたわけですが、イエス様は弟子達に事実を伝えます。イエス様にとっては眠った人を起こすのも、死んだ人を起こすのも同じです。でも弟子達にとっては眠っているのと死んでいるのとは大違いです。このことを通してイエス様は大切な真理を教えようとされている。だからラザロが実際に死んだことが幸いなのだというのです。こんな言葉を聞いた時に

「そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」(16節)

彼は疑い深い人間なのですが、一旦こうと決めたらすごく意志が固いのでしょうか。「イエス様と一緒に死ぬ覚悟でユダの地に戻りましょう。」ということです。今日はここから大きく3つのことを学んでいきたいと思います。

試練が忍耐を養わせる

イエス様に愛されていた人物が重病になった。それも良くなるかと思ったら段々と悪くなり死んでしまった。彼らの心の中には強い確信「イエス様にお願いすれば助けて下さる。」があったはずです。ところが待てど暮せど来ない。イエス様は私達を見放してしまったのではないかという失望感や悲しみがあったろうと思うのです。でも彼らは間違いなく愛されていたのです。愛されていたのだけれどもこの苦しみに出会ったのです。こういうことがあるのです。私達は自分の祈りや願いが叶わなかった時に「神様は私をお見捨てになった。神様は私を愛していないのだ。」と考えることはないでしょうか。この考え方を完全に打ち壊すべきです。神様は愛されている者を敢えて試練に合わせることがあるということです。

「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」(ヘブル12章5〜7節)

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12章11節)

苦しみにあったら、心からとは難しいかもしれませんが「嫌だな。」と思いながらでもいいですから「愛されているんだな。」と告白しましょう。そして少しづつそれが本当なのだと受けとっていきましょう。すると私達は変わっていきます。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1章2〜4節)

試練がないと私達は成熟していかないのです。苦しみがないと私達は忍耐を養っていくことは出来ない。苦しみの時に「もう嫌だ」とだけ言っていたら何も変わりません。嫌な出来事があった時には聖書の言葉に帰ってくるべきです。『訓練と思って耐え忍びなさい。』や『すべてのことを働かせて益としてくださる。』何でもいいのです。御言葉に帰り「神様これを益として下さい。」と祈るのもいいでしょう。御言葉を受け「神様がこう約束して下さっているのだから、現状は違うけれどもこのことを実現させて下さい。」と祈っていくと段々と忍耐が起きてくるのです。諦めは消極的です。でも忍耐は「神様がきっと答えて下さるのだから、それまで待つ。」と御言葉を握って待つということです。すると成長を遂げた何一つ欠けのない完全な者となるのですから、すごいではありませんか。問題は私達が試練に会う時にいつも喜び、愛されていると受け取ることです。最初は受け取り難いでしょうが、1つ1つそれをしてみて下さい。段々と自分の中に忍耐が出てくる。愛されていても遅れることがある。なかなか答えが来ないことがあることを忘れないで下さい。でもそれが出来なくて失望してしまうこともあるかもしれません。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル12章2〜3節)

私達が疲れ果てて心が病み始めた時に必要なのはイエス様を見上げ、御言葉に目を留める。御言葉をいつも口づさむことです。最初がどんなであれ神様によって成熟した人に変えられていくのです。その秘訣は試練にあった時にどう対処するかです。「もう嫌だ。」とそこから逃げるのではなく、そのことを「愛されているのだな。」と受けとれたら勝利です。

次に『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。』ということですが、ラザロは死んでしまったのです。しかしこのことを死で終わるのではなく神の栄光のためだと言っています。皆さんの試練も同じくそれは悲しみで終わるものではなく神の栄光が現わされるためです。ここまで期待しましょう。そして求めましょう。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)

死で終わるのではなく神の栄光のためという約束を握って恵みに進んでいきましょう。この出来事の結果イエス様は十字架にかかるのですが、イエス様はそれを栄光と言っているのです。あの苦しみが栄光を受けるとはどうしてですか。それは十字架を通して全人類が福音に導かれる道が開かれるからです。私達も「神様がそうして下さるのだ。私の試練も、この問題も、この苦しみもそれで終わるのではない。栄光に変えられていく。」という信仰を持ち共に進んでいきたいと思います。

星野富弘さんは日本でも一番有名なクリスチャンかもしれません。元高校教師でしたが、マット運動の最中に首を骨折し下半身麻痺となり、手も本当に少ししか動きません。ある時には一生懸命に介抱してくれる母親に苛立ちをぶつけるために、自分の出来たこと”唾を吐きかけた”ら、その唾は引力の法則に従い自分の顔に落ちてきたことを著書に記しています。でも後の日にイエス様に出会ってから彼はどうなりましたか。これは簡単なことではなかったでしょうし、どんなに多くの悲しみや苦しみを通ったことでしょう。でも彼こそが今、クリスチャンではない人達に希望や慰めを与えている一人ではないでしょうか。

私達は自分の出会う痛みや苦しみや悲しみは、ただそれだけで終わると考えてしまうのです。しかし神様はそれを用いて栄光を現わしてくださる。私達もそういう歩み方にまで整えられていきたい。このことを真剣に求めていきたいと思います。

最後にイエス様は9節、10節で『昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」』と言っています。

この光とは何でしょう。

「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8章12節)

ユダに戻ったら石打にされてしまいますと弟子達が言った時に「わたしに従っていれば大丈夫。」とイエス様は言いました。同様に私達に必要なのはイエス様に従うことです。いつもイエス様を見上げて目を離さずにいること。目を離して苦しみ、悲しみ、問題あるいは人を見ると私達はすぐにつまずくのです。私達はイエス様を信じて心の内に光を持っていてさえも、もしイエス様から目をそらしたらそうなるのです。まして心の中に光を頂いていないのならどうやって歩むことができるのでしょうか。もし心の内に光を頂いていないと思ったらイエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じて下さい。その次にイエス様をいつも見上げて従っていく。その時に私達の内には命の光が輝くのです。苦しみや困難があってなお、喜んでいることが出来る。私達はイエス様を見上げていく者となりたいのです。イエス様を見上げるとは具体的にイエス様自身を見上げることでもあり、またイエス様の言葉を見上げると言ってもいいかもしれません。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1篇2〜3節)

私達はこういう恵みの世界に導かれているのです。先日田原米子さんという方が天に召されました。母親を亡くし生きる意味を失ってしまった彼女は17歳の時に電車に投びこみ自殺を図りました。ところが彼女がイエス様に出会い、後に書いた本は「生きるってすばらしい」です。病院で目覚めた時に自分の体の状態を見て医者に「何故殺してくれなかったのか」と食ってかかったのですが、両足切断、左手切断、右手の指は3本しか残っていなかった。でもイエス様に出会った時に「私にはまだ指が3本残っている」と、その時から彼女は「この体でどこまで出来るかな」という冒険の旅が始まった。以前牧していた教会に来て頂きましたが、今までお会いした中で一番明るい人でした。試練が多くの人に慰めや励まし、祝福を与えたのです。私達の生涯もそうなっていくことが出来るのです。パウロはこう言っています。

「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(第2コリント1章5〜6節)

パウロにとって苦しみに会うことは問題ではない。それはもっと多くの人を励まし慰めるためだという生き方、考え方、受け取り方に変えられていけばどんなに幸いでしょう。そしてどんなに周りの人々が潤うことでしょう。この恵みの中に歩むために必要なのは、あなたは愛されているということ。試練があっても、直ぐに答えられなくても愛されている。ラザロ達もそうでした。この試練は死で終わるものではなく神の栄光のためであるという確信を握っていきましょう。そしてイエス様をいつも見上げてイエス様の御言葉を反芻して思い起こして神様の恵みの世界に進んでいきたいと思います。

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