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平和を作り出す者となるために

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コロナ発生以後自粛が続いていましたが、最近は東京でも時短営業が解除されました。通常の営業時間に戻った飲食店のテレビインタビューで若者が、「自分の周りには感染した人はいないし、感染しても死ぬことはないから」と答えていました。私はこれを見て、「これではコロナは収束が難しいかもしれない」と思ったと同時に、「これは“自己中心”という考え方からくるのではないか」と考えさせられました。では聖書では、私たち人間のことをどのように語っているのでしょうか。

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。                                (エレミヤ17:9)

もちろん表面的には素晴らしい立派な人がたくさんおられます。でも心の内側を探っていきますとどうでしょうか。ある程度落ち着いている時とか、自分にとって都合が良い時は、良い心、穏やかな心でいることができるかもしれませんが、自分が窮地に追い込まれたり、自分にとって不利な事が起きたりしたら、苛立ったり、恨んだり、嘆いたり、自分勝手で醜い人間になっていると感じたことはなかったでしょうか。人間は生まれながら悪なのか(性悪説)、善なのか(性善説)ということがよく言われますが、聖書は、両方を語っています。神様が初めに天と地を造られ、人間を造られたその時に、人は善だったのです。ですから今も私たちにはその名残があります。例えば私たちは愛し合うことを尊び、自分が愛されるだけでなく、他者に優しくしてあげられる、愛することができる時も嬉しいと思うのではないでしょうか。人間には、性善的なものが残っているのです。しかし何か事が起こると突然、凄い形相で、恨み、妬み、嫉妬、酷い事を言ったり、やったりしてしまう悪の権化のようなものが自分の中にもあると思わされることもあるのではないでしょうか。でも神様は、私たちを良い者に、幸せな者になるようにと造られたのです。それが神様の目的であり計画でもあったのです。

だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。               (Ⅰヨハネ3:7~8)

ところが良い者として造られた私たちが、悪魔にそそのかされて、本来あるべき生き方ができなくなってしまったのです。誰でも人は自分が悪い人間ではなく、良い人間、優しい人間でありたいと願っています。でも実際には悪魔に支配されてできなくなってしまっているのです。そういう私たちの姿をよくご存じの神様が私たちを救い出すために、イエス・キリストがこの世に来て下さったのです。

平和を作る者は幸いです。その人たちは、神の子どもと呼ばれるからです。    (マタイ5:9)

神様は私たちを、平和の僕、神の子どもとされようとしたのですが、実際は、家庭で、職場で、地域で、あちこちで衝突ばかりではないでしょうか。私はそんなことはないと言う人でも、心の中を探ってみると「あの人は嫌い。この人とは会いたくない。」そんな心があることに気づかされるのではないでしょうか。そしてそういう事で悩んだり、苦しんだりしているのです。私たちがそこから脱出し解放されるために、イエス・キリストは来て下さったのです。これは朗報です。ですから、私たちはこの事を是非とも味わっていく者でありたいものです。では具体的にはどうしたら良いのでしょうか。

もし、自分には罪はないとい言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。               (Ⅰヨハネ1:8~9)

私たちは自分の罪を認めたくないのです。他人や環境のせいにしておいた方が楽だと思うのです。しかしそう思っている限り、心はいつもすっきりせず、イライラして、暗くなり、マイナスの考えしか出て来なくなり、人や環境を恨んだり、憎んだり、嫉妬したり、そんな思いに閉じ込められてしまっているのです。正直な気持ちを認めないことがかえって自分を苦しめていると言っても過言ではありません。そのような誤魔化しをやめて、正直に「私は、あの人のことが嫌いです。この人のことも嫌だと思います。顔なんか見たくもありません。でも自分の力ではどうしようもないのです。」と自分のその醜い姿や愚かさを認め告白するのです。自分の過ちを認めることを妨げるのは自分の“プライド”です。他者には負けたくない。他者よりも自分が立派だと思いたい。このプライドを傷つけたくないのです。でも、そのプライドが皆さんを苦しめているのです。ただ注意して頂きたいことがあります。それは自分をただ卑下することではないということです。ただ自分が悪い、自分はひどい人間だと考えると落ち込んで、生きる力がなくなってしまうからです。ですから「神は真実で正しい方ですから」という言葉が大切なのです。これは“十字架”があるからということです。『十字架であなたの罪はもう解決済だ』と言われていることをぜひ知って頂きたいのです。罪を犯したことがないイエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪の身代わりとなって下さり、私たちにどんな罪があったとしても、『もうその罪の罰は私が受け切った。あなたはその事で悩む必要はない。その罰は私が背負ったのだから安心しなさい。』と言って下さっているのです。キリストの十字架は、どんな罪でも赦すことができるのです。そして「すべての不義からきよめてくださる」とも語っておられるのです。要するに私たちを変えて下さると言っているのです。私たちがこのような神の赦しを受けられる理由は、それは神様があなたを愛して身代わりの十字架を負って下さったからです。愛しているから犠牲を払って下さったのです。神が私を愛して下さっている。赦して下さっている。受け入れて下さっている。これらの事に思いが行く時に、私たちは段々と変わって行くことができるのです。

朝起きた時に、どんなに自分が愚かに見えても情けなくても、自分の感情や思いがどうであれ、「神様、あなたは、このままの私を愛して下さること、受け入れて下さること、赦して下さることを感謝します。」と祈ってみて欲しいと思います。それを毎日続けていく時に、きっと身も心も変わっていく自分に気がつくと思います。

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。・・・次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ。渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。                  (ローマ12:17~21)

そんな難しいことはできっこない、と感じると思いますが、自分が愛され赦され、あるがままに受け入れられているということを受け止めることができるようになる時に、不思議に「この人も都合が悪かったのかもしれないな」とか、「厳しい精神状態だったので、あんなに酷い言葉や態度を取ってしまったのかもしれない」などと、相手の事を考えたり思いやったりする心が生まれ、赦せるようになってくることが多くなり、相手に対するモヤモヤも次第に消えていくのです。そしてさらに、

あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。                                  (Ⅰペテロ5:7)

という言葉に励まされ、神様に問題をお任せするようになる時に、不思議な平安が与えられ、段々と穏やかな心になっていくことに、自分自身も周りの人も気づくようになると思います。私たちが神の平安を頂くようになる時、不思議に他者の苦しみや悲しみにも耳を傾けることができやすくなり、平和を作り出す者となるのです。コロナ禍だからこそ、私たちはもう一度しっかりと神様の愛と赦しを受け止めて、他者を受け止めることができるまでに変えられていけたらと思います。

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