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クリスマスとは Ⅱ

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救い主の誕生

クリスマスは、この世にイエス・キリストが誕生したことを記念する時です。今や世界中でクリスマスは祝われています。なぜそれが特別なことなのでしょうか。イエス・キリスト、すなわち「救い主」は、生まれる何百年も前から、その誕生が聖書に預言されていました。この世で素晴らしいことを成し遂げて有名になった人物、あるいは祀られた人物はたくさんいると思いますが、生まれる前から知られていた人というのは聞いたことがありません。「救い主はベツレヘムで生まれる」と預言され、今から2000年ほど前にベツレヘムで生まれました。本来であればベツレヘムで生まれるというのは、あり得ないことでした。というのは、イエス・キリストを身ごもったマリヤと夫のヨセフはナザレという町に住んでおり、ナザレとベツレヘムは約300キロほど離れていたからです。当時、彼らが住んでいたユダヤはローマ帝国の属国でした。皇帝の勅令により、生まれ故郷において住民登録をするようにと通達が出されたために、ヨセフは臨月の妻マリヤを連れてベツレヘムに行かなければならなくなったのです。もし、それがなければ「ナザレ」で出産していたことでしょう。
赤ん坊がマリヤの胎に宿ったのも通常のことではありませんでした。「処女が身ごもる」と聖書に預言されていました。普通に考えたなら処女が身ごもるなどあり得ないことです。しかし、実際にそのようになりました。マリヤにも夫ヨセフにも神様からのお告げがあり、2人がそれを受けとめたことによって、イエス・キリストは胎の中で成長し、ベツレヘムで生まれたのです。
あるとき、東方の博士たちが、救い主なるユダヤ人の王が生まれたことを知らせる星に導かれてユダヤ地方にやってきました。しかし、どこに行けば良いか分からず、王宮があるエルサレムに行き、当時ローマ帝国に統治を任されていたヘロデ王に対して、ユダヤの王様はどこに生まれたのかと問いました。エルサレムにいた学者は、すぐに「ベツレヘム」であると答えることができたほど、預言されていたことは広く知られていました。そして預言されていた通りのことが実際に起こったのです。これらのことは、聖書の預言、神の言葉が真実の言葉であることを証ししているのです。

闇の中に輝く光

この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。 ヨハネ1:4-5

世の中はなぜ、こんなに嫌なことが続くのか。神も仏もない。悲しいこと、辛いこと、暗闇ばかり…そんな風に思ったことはなかったでしょうか。しかし聖書は、「闇は光に打ち勝たなかった」と語るのです。ロウソクの小さな光だけでも、光が灯った瞬間から完全な闇ではなくなります。深い暗闇の中にあっても、一つの灯りは希望を与えるものだからです。どれほど闇が深かったとしても、暗闇がどれ程厳しいものであったとしても、そこに光がやってくるならば、闇は打ち壊されていくのです。
イエス・キリストが不思議な形でこの世に生まれた理由は、私たちには希望があるのだ、本当に光があるのだ、ということ、闇よりも光の方が強いのだということを表すためであったのです。「この方にはいのちがあった」。自分に生きる力がない、元気がない、生きていくことができない…そんな悲しみや痛みを通ることはそれほど多くはないかもしれません。しかし、そんな時に、たった1つの望みでもあるならば、大きな希望になるのではないかと思います。そして、まさしくイエス・キリストこそ、この闇の中に輝く光となってくださったのです。たとえあなたの罪が、あなたの闇が、あなたの苦しみがどんなに深く重いものであったとしても、それに打ち勝つ力を、このイエス・キリストは私たちに与えてくださるのです。
先ほど、救い主の誕生は、預言された通りだと言いました。ヨセフとマリヤがベツレヘムに到着した時、宿屋は住民登録をしに来た人たちで満杯で、彼らには泊まる部屋がなく、残された場所は家畜小屋でした。当時は洞窟を家畜小屋として利用していたのではないかと言われています。そして、そこで生まれた赤ん坊が寝かされた場所は、飼葉桶、家畜の餌箱です。清潔なベッドはありませんでした。実は、これこそが神様のご計画であり、イエス・キリストが何のためにこの世に来られたのかということに深くかかわっていたのです。臭くよごれた家畜小屋で周りは暗闇だったでしょう。キリストが来たのは、まさしくそのような罪・けがれにまみれたこの世です。その罪もけがれも、すべてをご自身が受け、十字架で身代わりとなって、私たちに新しい人生を与えるためだったのです。
キリストは、強く立派な素晴らしい人のためだけにではなく、弱く除け者にされ、馬鹿にされて、人々から毛嫌いされるような、そういう人を救うため、そういう人の隣人となるために生まれてくださったのです。しかし、人々を救うために来られたキリストは、除け者にされ、馬鹿にされ、人々は彼を受け入れなかったと聖書は語ります。最後は十字架という道でした。イエス・キリストは十字架上で『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです』と祈られました。しかしこれは当時の人々だけではなく、あなたのための祈りでもあったのです。
私たちは思い通りの生き方をしたい、有意義な生き方をしたい、立派な生き方をしたいと思います。若い時にはそれなりに志を持っていたかもしれません。しかし残念ながら、私たちは人生の様々な辛酸を舐める中で、もはやそんな生き方はできない、良い人生を生きようとした自分自身の中に、醜く汚く自分勝手な思いが渦巻いている。どこに救いがあるのか、どこに希望があるのか。そんなものは何もないと思わざるを得ないと感じているのではないでしょうか。そんな私たちのためにイエス・キリストが生まれてくださり、私たちを光の道に歩ませるために、十字架で身代わりの死を受けてくださったのです。イエス様は神であられたのに、私たちを愛し、「あなたがたが幸せに生きてほしい。そのためのすべての罰はわたしが受ける」と言って、率先してこの世に降り、そして十字架にまでかかってくださった…これが神様の愛の業なのです。

田原米子さんという方は、母親からとても愛されていました。ところが彼女が高校生の時に母親が亡くなってしまいました。彼女は生きる力も元気も将来の希望も無くなって、ある日、駅のホームから自分の身を投げたのです。一命をとりとめましたが、両足と片腕を失い、残ったもう一方の腕は、指3本だけ。教会の方々が何度も何度も彼女の病室を見舞うのですが、全くの拒否です。そんな彼女でしたが、少しずつ聖書を読み始めたのです。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』という言葉に出会い、この言葉が心に入ってきた時から、不思議な力と勇気と元気が湧き上がったと、著書『生きるってすばらしい』に書いています。両足もなく片腕もない自分がどうやって生きていけば良いのか、助けた医者を呪い、家族を呪っていた彼女が、指が3本あると気づいたのです。そしてその時から指3本で何ができるかと考えるようになり、指3本でも自分の名前が書けた。箸も使えた。後に結婚して二人のお子さんも与えられています。私がお会いした中で一番明るい人という印象を持ちました。
キリストのいのちが入ると、私たちは変わるのです。たとえ闇があっても、闇に光が灯ると希望が入り始めるのです。そしてそれは生きる力となっていくことができるのです。神様は米子さんだけはなく、イエス・キリストを自分の救い主としてお迎えする人には誰でも同じことをしてくださいます。キリスト求めていくなら、どんな人でも新しい人生、希望のある人生を歩むことができるようになるのです。神の御子のイエス様が人間の世界にお生まれになったこと、また、この方によって今までとは違う人生を歩む道が、私たちに開かれたことを喜び、祝う日がクリスマスなのです。
私たちに必要なのは、神を認め、自分の弱さ・罪を認め、イエス・キリストに救いを求めて、“人生の主”として心にお迎えすることなのです。これによりあなたの人生も変わることができます。クリスマスにこの恵みを受け取っていただければと、心から願ってやみません。

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