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包容力

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本当に自分を受け止めて優しく包んでくれる人がいたなら…と思ったことはありませんか。そう願う時には、どうしたら良いでしょうか。実は、一番の近道は、まず自分がそのように変えられていくことを願うことなのです。ある女性から、「私は、自分が変わりたいと思って教会に来たのに、少しも変わらないのです。どうしたら良いのでしょうか」と相談されました。続けて彼女は「でも不思議なことがあるんです。私自身は少しも変わらないのに、教会に来ていない主人が変わり始めたんです。」と話されました。以前から彼女を知っている友人に彼女の変化を聞いてみたところ、その方は「あの人は教会に来てから本当に変わったんです」と言われたのです。本人は全く変わっていないと思っているのですが、周りの方からみると全く変わってしまったのです。

以前の彼女は、ご主人と喧嘩をすると1ヶ月全く話をしなかったそうです。けれども、神様を知ってからは喧嘩をすると直ぐに祈るようになりました。「『神様。また1ヶ月も何も話しをせず、冷たい関係を持っているのは辛いので、助けて下さい。どうか主人と直ぐにしゃべれるようにして下さい』と祈ると、一時間もしない内に、ご主人の方から話しかけてくるのです。本当に主人は変わってしまったんです。」と言われたのです。

彼女は祈っているのです。まず自分が変わろうとする時に、実は他人も変わっていくことができる。ですから、包容力のある人が欲しいと思ったら、先に自分が包容力のある人になっていくことをいつも覚えてくださったらと思います。
ではその秘訣を、聖書の言葉から見てみましょう。

苦しみから生まれるもの

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。…あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイ5章3~8節)

普通は、心の豊かな者こそ幸いだと考えませんか。聖書の教えは真逆です。「自分は、大それた者でも立派な者でもない。本当に小さな貧しい者だ」と自覚して、上から目線ではなく、同じ所に立って「そうだよね」と共感し、受け止めて一緒に考えてくれる人。それが自分が貧しさを知っている人だということなのです。自分が本当に惨めで愚かな者だと気付くなら、その人は神様からの慰めや励ましを頂くことができるようになるという意味なのです。次の『悲しむ者は幸い』であるとは、これも不思議な言葉です。普通は、悲しみは味わいたくないのが私たちです。「苦労は買ってでもしろ」という諺もありますが、人格者と言われる人は、それなりの苦しみ、戦い、葛藤を通っている。そういう意味で、悲しみは嫌なことばかりではない。却ってこれが私たちを、時に豊かにするものでもあるのです。

柔和は、色々な事柄があってもそれを受け止める。自分が生かされていることをわきまえる。するとその人によって多くの人が、慰めや励ましを受けることができるのです。あわれみ深い人は、他人の苦しみや悲しみを見て自分のことのように悲しみ悩む人がいますね。その人こそ、神様からのあわれみを受ける。『心のきよい者は幸い』。もし私たちの心が素直ですっきりしたものであるなら、色々な出来事の中に、神を見ることができる。

山を見ても、空を見ても、本当に神がおられるとどこかで感じ取る心が働くのではないでしょうか。聖書は、人間が目指すべき1つの姿を表して下さっている。問題は、どうしたらそのような思いになっていけるのかということです。

見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。(イザヤ48:10)

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるのですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)

「何故こんな苦難が次々と私に降りかかるのか。本当に神などいるのだろうか。私を見捨てたのか…」そう思っても仕方がないかもしれませんが、困難や苦しみを「試練」として受け止める時に「このことにも意味があるのだ。ここから私を変えていって下さるのだ」という思いで、受け止め始めると私たちは変わっていきます。いつも嬉しいこと、楽しいことだけで正しい人格は成長しません。本当の意味で人が成長していくのは、苦しみを通してです。ですから、苦しみに出会った時に、「この事を通して、どのように成長させて下さるのか。どのようにして乗り越えさせて頂けるのだろうか」と考えることができるならば、皆さんは包容力の羽が広がり始めていると思います。

銀には不純物が含まれていますので、精錬をします。熱を加えて不純物を取り除くと純粋な銀となる。神様はあなたを高価で尊い宝物であると言い、その人の素晴らしさが現われ出てくるために、敢えて苦しみをお許しになると聖書は語っているのです。ですから懲らしめは喜ばしいものではありませんが、神様に頼りながら耐え忍ぶのです。でもどのようにして耐え忍ぶことができるのでしょうか。

包容力のある人になるために

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6~7)

それは、皆さんの気持ちを神様に申し上げることです。最も包容力のある方は、神様ですから、この方に向かって、あなたの心の思いを全て打ち明けてみましょう。「神様に、私の醜くく汚い心を言えません。」と思うかもしれませんが、神様にこそ吐き出した方が良いのです。神様はどこまでもそれを受け止めて下さいます。

この方にまず心の思いを打ち明けること。私たちは、ただ耐え忍ぶことは無理なのです。却ってそれはいつか爆発してしまいます。ですので、まず皆さんの心を洗い出すことです。実行していても何も変わらないのは、心の深い部分にあるヘドロを洗いざらい出していないからかもしれません。ヘドロがなくなればそこに爽やかな風が吹き始めて、心が穏やかになって神による平安が出てくるということです。

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:8~9)

教会に来ると必ず出てくる言葉が「罪」です。これは『的外れ』という意味です。本来進むべき的からずれてしまった生き方なのです。人間は神と共に、神に向かって歩むのが本来の人間の姿でした。この時に平安で豊かな生き方が可能になるのですが、私たちはそこからずれてしまい、自分にとって、損か徳かで判断します。他の人の為の幸せとか、或いは何が本当の意味で一番良い事であるかを考えることは少ないのです。もし自分のズレを正直に言い表すなら、神様は、その罪(ズレ)を赦して下さいます。

その理由は、イエス・キリストがあなたの罪を赦すために二千年前に十字架に架かったことを忘れないからなのです。犯した罪の多さや少なさ、大きさや小ささは関係なく、私たちが自分の罪を言い表すならば、神様はその罪を赦されるのです。不思議なもので、自分で罪を認める時に、他人から責められても、あまり怒りの心が生じてこない。逆に他人の非難が受け止められるようになり、自分の弱さを素直に受け止められるようになる。

それはあなたの包容力が広がっているからなのです。自分の弱さを認める人は一見弱そうに見えますが、本当の意味で、強く包容力のある人ということができると思います。ですから、自分が弱い者であることを素直に認め、正直に告白すると神様は赦して下さるだけではなく、聖めても下さるのです。それは直ぐにではないかもしれませんが、やがてあなたは変えられていきます。私たちが受ける様々な痛みや苦しみから逃げずに、この事は何を教えているのだろうか、ここから何を学ぶべきか、神様はどうやってここから私を抜け出させて下さるのだろうか…そんな祈りと期待を持ちながら、包容力のある人物に変えられていきたいと思います。

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