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「御国の倫理」

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2000年10月29日 日曜礼拝メッセージ
ルカ6章27〜38節
牧師 吉田耕三

聖書の中には時には、とても出来ないと思えるようないましめ、御言葉も出てきます。今日の箇所もその様な所の一つではないかと思います。皆さんはそんな時にどの様な反応をなさるでしょうか?適当に聞き流して、警告くらいに考えれば良いと思うかもしれませんが、せれでは聖書の真意を曲げることになります。では私達は聖書をどのように理解し、受け止めていけばよいのでしょうか。御言葉から教えられて行きたいと思います。

いと高き方の子供の基準

この箇所は前々回学んだ、『貧しい者は、幸いです。神の国はあなたがたのものです』という、いわゆるこの世で私達が知ってきた基準や考え方とは全く違う価値基準を語られた箇所の続きとして、今まで聞いた事もない様な価値基準"新しい神の御教え"を語って下さっ手いる箇所です。前半部分は、『貧しい者は幸いである』『飢えている者は幸いです』『泣いているものは幸いです』等の心の状態を述べていたのですが、これから語ろうとしているのは、行動であります。すなわち私達"いと高き方の子供"とされた者が持つべき倫理基準であります。

皆さんは、普段、自分が悪い人間であると考えているでしょうか。?自然に考えれば、「そんなに悪い人間ではない」否、「まあまあ、よくやっている方だ」と考えている方が多いのではないでしょうか。そして私達はそれぞれ、自分の基準の中で、それなりに神の命令に従っていこうとしていることが多いように思います。するとどうなるでしょう。?しばしば私達は、神のことばとの矛盾が出てくるのです。その時私達は神の基準を捨て去るか、自分の基準を変えるか、二つに一つの選択を迫られるようになるわけです。

しかしこんな時、私達が必要なのは、「これは自分には出来ない事だ」と認め、神様に求めるべき事だと言うことを知っていただきたいと思うのです。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」

イエスの愛と救いを受け入れることができた人は、自分に傷を付けた人をも少しづつ(こんな私が赦されたのだから)と赦せるようになって来るかもしれません。しかしそれでもその人に対して"善を行う"という所までいっている人は少ないのではないでしょうか。無視したり、苛立たないでいる位の所までは出来る様になっているかもしれませんが、積極的にその人に良き事を行う所まで至っているかと言いますと、少し厳しいのではないでしょうか。

「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬も向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。」28〜29節ここまでくると、(それは出来ない)という気持ちになってくるのではないでしょうか。ここで大切な事は、"自分には出来ない"と悟らせて頂く事なのです。

これまでの多く格言の基準は「こういう事をしてはならない」ということでした。最大のレビ(ユダヤ教の教職者)、ヒルレルは「自分にとって嫌だと思う事を他の人にしてはならない」と語りました。またギリシヤの雄弁家イソクラテスは「他の人の仕打ちにあなたが憤慨するような事を他の人にしてはならない」と語りました。孔子の言葉は「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」でありました。

多くの教えは、「これはしてはいけない。あのようにしてはいけない」というものです。ところが今ここで語られている事は、「しないこと」ではなくて、「積極的によい事をしなさい」というのです。しかしそこになりますと、私達はそれが出来ない事に気が付き始めるのです。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」エレミヤ17章9節

「私はそこまで酷くはない。それなりに頑張っている。こんな良い所もある」と弁解したくなる心があるかもしれません。『あなたの敵を愛しなさい』と言葉で言うのは簡単です。しかし具体的には、あなたを憎む者に善を行うこと。その人に近づき良き事を行う。或いは『自分を呪う者に祝福を与える』『侮辱する者のために祈る』それが出来る人こそ神様が造られたあるべき人間の姿なのだと言われると、「私には出来ません。その様な力もありません」と認めざるえないのではないでしょうか。

実行できない自分を知る

「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛するものを愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。」32〜33節

私達が自分のやっている良き行いを見てみると、確かにやっている様には見えても、自分によい事をしてくれる人にやっている程度にすぎないのではないでしょうか。そしてそれは"罪人"と呼ばれる人達でさえやっている事であり、そんなに誉められる事柄ではないと聖書は語っているのです。

『敵を愛しなさい』

これは神の基準であります。ではこの基準を通して私達は何を学ぶべきなのでしょうか。それは「自分には出来ない。自分は罪に売られた罪の奴隷なのだ」ということを知ることなのです。神様の律法が正しいと判っていても、それが出来ない自分の現実を知る時に、(私には本当に良い事が出来ない。やらなければいけない事をせず、却ってやってはいけない事をしている惨めな者だと知る時に)最早"自分"に期待をしようとはせず、自分を救ってくれる方に期待をする信仰(だからこそイエス様が十字架に掛かって下さった)という信仰に至る訳です。

そしてその時にこそ新しい命の力が働き始めるのであります。そればかりか、この私達に聖霊を注いで下さり、私達に「出来ない者をも出来る様にしてくれる」という神の深い恵みと祝福を体験する様になっていくのです。「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」ピリピ4章13節

私達は自分の力、肉の力でやろうとするなら、出来ない惨めさ、力のなさを感じるしかないのです。ところが一旦そこから私達を救い出して下さる方に目を向け始める時に、恵みの御言葉に触れ始める事が出来るのです。私達に必要なのは『敵を愛せ』と言われた時に、私には(そのような愛がない)と認める事です。そして同時にこんな私の為に、イエスが十字架に掛かり、御霊を注いで下さった事を受けとる事です。その時に神様は私達にその事を行わせる力を与えて下さるのです。私達が肉の力で生きることから離れて、神様により頼み歩んでいく者となっていく時に、自分の力では出来なかった事が次第に出来る様になってくる。そしてその事のゆえにあなたは祝福されていくのです。(ヤコブ1:23)

私達に必要なのは、第1に「自分には出来ない」と認める事。第2に「その為にイエスが死んでくれた」と認めること。第3に『わたしはわたしを強くしてくださるかたによって、どんなことでも出来るのです』との御言葉に立って求めていくこと。その時今まで出来ないと考えていたことが、一つ一つ出来る様になっていくという体験をし始めるのであり、。また、その行いの故にあなたは祝福されるのです。私達もその祝福に実際あずかれる者とならせて頂きたいと思います。

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