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思い煩いからの解放Ⅳ

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バウンダリー(境界線)

 私たちの心がかき乱される要素の一つに“思い煩い”というものがあります。私たちが思い煩う大きな原因の一つは、私たちの心の中に正しい「バウンダリー(境界線)」ができていないことが挙げられると思います。“バウンダリー”あまり聞き慣れない言葉かと思いますが、私たちが健全な人間関係を築く上で、大変重要な考え方なのです。私たちが思い煩いから解放される生き方をするためにとても大切なのが「正しい境界線を引く」ことなのです。

 具体的に、あなたの人間関係はどうだったでしょうか。強い性格や支配的な人が過干渉で、自分の中に土足で入り込んでくると感じたことはなかったでしょうか。それらを放置しておく時に、私たちを鬱的な思いに誘う危険は高いのです。

 たとえば、皆さんの家に垣根がないとします。境目がないので隣人がこちら側に進出してきて、あなたの敷地の中にその人の車を停めるようになったとしたらどうでしょうか。その車を見る度にイライラして文句を言いたくなり、怒りがこみ上げてくるのではないでしょうか。その解決策としては実は垣根を作ればいいわけです。垣根を壊してまで駐車することはないでしょうし、もし壊されたら修理を要求できるでしょう。

 同じように私たちの心の中にも「境界線」を引く必要があるということなのです。ここまでは立ち入って欲しくないという気持ちになった時には、「この事は私にとってとても辛い事なので、今はあまりお話しできないのです」と相手に一度お話しし、バウンダリー(境界線)が引かれると、その後は余計なイライラや怒りはぐっと減ってくると思います。「境界線」を正しく引くことが、お互いがスムーズな人間関係を築いていく大切な秘訣ということができるのです。

神様との境界線~思い煩いからの解放

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。Ⅰペテロ5:6-7

 私たちが思い煩いから解放されていくためには、「神様との境界線」を築かせて頂くことが大切です。すなわち神様に属することと、自分が取るべき責任をきちんと分けていくということです。

 『取り越し苦労に過ぎ越し苦労』という言葉がありますが、もし考えても仕方がないこと、自分の手に負えないことについて「どうしよう、どうしよう」と思い煩っているとすれば、それは神様の領域に知らないうちに入ってしまったからなのです。ですから「私は神ではない、私にはできないことがある、これはもう考えてもしょうがない事柄だ」と気づくことです。『神の力強い御手の下にへりくだりなさい』とあります。「これはもう神様に委ねるべきなのだ」と素直に認めることが大切なのです。これが、聖書が私たちに伝えて下さっている思い煩いからの解放されるための第一歩なのです。

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありません。マタイ6:25-26

 食べ物や飲み物、衣類のことを心配しなくてよいと言われても、ではどうやって生きていけばよいのかと、考えあぐねてしまいます。これは「あなたが思い煩う前に、あなたを守って下さる方がいることを思い出してください」という意味なのです。私たちは自分で生きていると思っていますが、実は、私たちが生きるために必要なほとんどの物は神様が備えて下さっていることに気づかないでしょうか。たとえば一番必要な水も、酸素も、太陽も皆与えられたものなのです。自分は生かされているのだということに気がつくこと、これが一番大切な事です。たとえ神様をなかなか本当には信頼できないとしても、試しに『神があなたがたのことを心配してくださる』という言葉に頼ってみてはいかがでしょうか。不思議に神の平安があなたの内にやってくる経験をきっとし始めると思います。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。ピリピ4:6-7

 これから先どうなってしまうんだろうか、こうでないか、ああでないかといろいろなことを考え、思い煩いに陥ってしまうと、心が苦しくなってしまいます。神様に素直に正直に自分の願い事を祈るなら、すべての理解を超えた神の平安がきっとあなたの心を守ってくださいます。

なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の花さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。マタイ6:28-30

 道端に咲いている雑草の花をじっくり観察してみてください。そこには素晴らしい造形の美、本当に素敵な装いをしているのがわかると思います。ましてもっと大切な私たちのことを神が気にかけてくださらないことがあるでしょうか。

 皆さんの中には「神様は私に良くしてくれていない」と感じている方もおられると思います。しかしそれは、神様とのバウンダリー(境界線)がうまく引けていないためかもしれません。自分の思いがすべてになってしまって、自分の願い通りでなければ全部不満になってしまう。すなわち、神様の領域に自分の足を踏み込んでしまっているのでイライラし、不平やつぶやきになってしまうのです。私たちは何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配するのではなく「私にはこれらのものが必要です。与えてください」と祈るだけで良いのです。

 イギリスでジョージ・ミラーという人が孤児院を開きました。「今の時代でも神が本当におられて、祈る者には答えてくださることを証明するために」と言って、彼は一つの大きな原則を作っていました。それは「祈るだけで、自分たちの必要を人には絶対に言わない、お願いしない」ということです。住むための建物の費用、孤児たちを養うのに必要な毎日の食事など、ただただ神様に祈るということを実践したのです。一番多い時は2000人の孤児を養いました。「食事の30分前にはテーブルに何もなかったことは数知れないほどあったが、食事がないことは一度もなかった」と記しています。それもパンとバターしかないということはなかったというのです。神様は祈りに答えてくださり、孤児たちを本当に養われたのです。聖書の神様は本当に生きておられるのです。

まず、神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日は明日のことが心配します。労苦はその日その日に十分あります。マタイ6:33-34

 ですから私たちに必要なことは「神の国(神様のご支配)と神の義(神様の前に喜ばれること)を求める」ことです。私たちは余計なことを思い煩っていることが多いのですが、明日のことを心配して何も考えてはいけないと言っているのではありません。今日は今日考えるべきことがあるのだから、その事に心を配りなさい。明日のことは明日になったら心配すれば良いのだと言っているのです。すなわち、「神様と自分の境界線を引きなさい」ということです。「どうしよう、どうしよう」と思い煩い始めたら、神様の領域に足を踏み込んだのだと気づいて「この問題をあなたに委ねます」と祈ってお任せしてください。神様が相応しい解決の道をきっとあなたに与えてくださることでしょう。

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